月別アーカイブ: 2013年6月

自分のことのように

 人との距離感をはかるというのはとても難しい。近寄り過ぎてもダメだし、遠く離れ過ぎるのはもっとダメだ。離れすぎるならもう他人。他人であれば距離感などはかる必要はなくなる。
 自分が思っている相手との適切な距離が、相手が思っている自分との適切な距離ではないことも多い。それが、よかれと思って近付いて失敗したり、よかれと思って距離を置いて失敗したりすることにつながる。まあそれは絶対の正解などないことで、永遠の試行錯誤しかないんだろうと思う。
 子供が出来て思うのは、まだ0歳児の息子にとって父親は絶対的な無距離の存在なんだろうなあということだ。仕事から帰宅するとドアが開く音ですぐに察知する。僕が息子に直行してあげれば満足なのだろうが、一応手を洗ってからじゃないとマズいと思うから洗面所に寄る。すると泣く。手を洗って息子のところにいくとキャッキャと笑う。ああ好かれているなと親バカな僕は嬉しくなる。
 こんな息子に、ご飯を食べさせる。お風呂にも入れる。オムツだって替える。ウンチをしてたって当たり前のように替える。朝早く5時台に起きて突っつき始める息子に付き合って起床する。大変だ。こんなことができるようになるとはまったく思っていなかった。でもこれ、自分の息子だから出来ることなんだろうか。それはよく判らない。甥っ子姪っ子ならどうだろうか。友人の子供なら、他人の子供ならどうなんだろうか。献身的に接することができるのだろうか。
 そこは、やはり距離感の問題なんだろうと思う。自分と息子の関係は、ある意味「それを自分のことのように」出来る関係だと思う。そうでなければウンチの処理など出来ようか。自分のウンチは当然処理出来る。だが、奥さんのだったらどうなんだろうか?自分のことのように考えられるから出来ることを、奥さんのためにどこまでできるのだろうか。いや、いざという時にやる気は満々だし、能力的にも出来ると思う。だが、その時の感情そのものは、いざそうなってみないとわからないとも思うのだ。
 それは介護という問題とも関係があるのだろう。幸か不幸か今現在自分が介護をしなければならない対象が周囲にはいない。だが、いずれそういう事態が起こる可能性はゼロではない。その時に下の世話を含めどこまでそれを自分のことのようにこなしていくことができるのだろうかとちょっと思う。まだちょっとだけでしか無いけれども。
 0歳児はやがてオムツの時期も終わる。それは成長という形で終わりを迎える。その終わりの日が来るのを願ってていい。だからそれまでの手助け的な意味合いがそこにはある。しかし介護というのはそうではない。要介護になれば死ぬまで介護だ。終わりを願うなんてことは不謹慎に当たる。終わって欲しいが、終わることを願ってはならない。それはなんか難しい感情だ。
 世の中には義理のお父さんの介護をしているお嫁さんもたくさんいる。そういう人がどこまで自分のことのように世話をすることが出来ているのだろうか。もちろん自分のことのように感じる必要はないしそんな義理も無いかもしれない。人間関係は様々だからだ。しかし自分のことのように感じられた方がひとつひとつの作業が気分的に楽なはずで、だったら自分のことのように悟れればいいのだが、それもそう簡単なことではないと思う。どんな気持ちでそれをやっているんだろうか。
 なんか話がよくわからなくなってきた。介護の話をしたかったのではない。それに介護のことなど経験もなければ語る資格もない。そのこともよく判っている。もうすぐ1歳になる自分の息子との関係を考えながら、文章はどんどん脱線していって、収拾がつかなくなってきたよまったく。まあそんなブログもたまにはあっていいんではないだろうか。
(いつもそうだろと言われれば、反論など出来ませんけれども…)

規制の理由

 東京都が路上での弁当販売を規制するそうだ。そんなニュースをどこかで読んだ。どこかという程度だから真偽のほどは定かではない。まあそんな程度の話と思って読んでもらえたらありがたい。
 で、東京都の意向がどうなのかはともかく、そのニュースに対していろいろな人がいろいろな意見を言っていたのが気になった。代表的なものとしては「500円くらいの昼飯は貴重なんだ。規制されたらとても困る」というもの。一方で「夏は食中毒増えるだろ。あんな路上で売ってる弁当がどういう作られ方をしているのかわからないし、規制して当然」という意見もかなりあった。そういう意見を受けて「自己責任で買って食うんだから、食わせてくれ」という人もいれば、「あれを食うというのは自己責任で自分や家族が食中毒で死んでも文句は言わないということだな。弁当屋を訴えたりするなよ」という人もいた。
 なんでこんな風な話に発展するのかなあ。
 ではこれを遺伝子組み換え作物に置き換えてみたらどうだろう。「遺伝子組み換えの作物の方が安く輸入出来るから加工食品も安く買えるんだ。規制するのはおかしい」という意見も出てくるだろうし「遺伝子組み換えで人体にどのような影響が出るのかわからない危険な食品だ。だから規制すべきだ」という意見も出てくるだろう。
 また、放射能の話はどうなるんだろうか。「福島第一近くの放射線量は高いので、そこに住むのは規制してすぐに集団移住すべき」という意見もあるだろうし、「そうはいっても自分の住み慣れた土地だよ。放射能は目に見えないし、多分大丈夫だと思う。住みたい人は自己責任で住めるようにしたいよ」という意見もあるだろう。
 原子力発電所の活断層問題はどうなるのか。「地下にあるのは活断層なので、運転禁止で廃炉」という意見も出てくるし、「活断層活断層と言ってる規制委員会はうっとおしいなあ」という意見も出てくるだろう。
 僕が感じた問題は一体なんだったのか。それは規制をする理由なのである。規制しやすいところに対しては規制するし、規制しにくいところには規制しない。そして規制しやすいところへの規制を強く肯定する人たちの多くは、規制しにくいところへの規制しない理由を殊更に述べる。その理由こそ、規制しやすいところに対する規制の理由とは真逆になっていることが面白い、というか、苦々しい。
 路上弁当での食中毒だが、確かに可能性を否定は出来ない。だが危険を指摘するような弁当での死者は出ているのか?これから起きるかもしれない。だったらそうならないように個々に監視すればいいだけだ。免許制にしてもいい。だがそうしない。すべてを規制して排除する。それは市民の健康の為に努力をするというものではなく、規制することによって監視する労を逃れていると言われても仕方が無い。さらにはそのエリアの飲食店や弁当屋へ利益供与していると言われても仕方が無いだろう。そもそも移動販売をつぶすには駐車違反で通報するのが最良の方法だったりするわけだが、今回の場合は駐車違反ではなく食中毒という理由で一斉規制というわけだ。しかも食中毒での被害者がいない段階での話である。規制によって潤うのは誰かとついつい勘ぐりたくなってしまう。
 だが、この規制の名目上の理由は市民の健康と安全である。ほんのわずかな健康被害が起きる可能性をも排除しようと、一斉にすべてを禁止にしようとする。その規制によってそれまで安価な昼食の恩恵に預かっていた人たちの利益を無視してまで、わずかな健康被害の可能性を排除しようとしている。なるほど、それほどまでに健康は大切なことなのだ。家族に食中毒が起きることは地方自治体にとってなんとしても避けなきゃならない重大事なのだ。ならばそれでいい。それをすべての自治体は徹底すればいいと思う。
 一方で、原発関連の話になってくると状況は一変する。放射能汚染による健康被害はどう考えられるのだろうか。放射性物質による健康被害は2年経った今も確認されていないそうだ。でも、絶対に起きないという断言は誰もしてくれない。過去の様々なデータによるとこうであるという人はいるが、それが2年前から今日までそして今後も続く前代未聞の状況で通用するかどうかもわからない。しかも福島の若者における甲状腺がんは異常なまでの数になっている。もしこれが原発事故に関係のないことなのだとしたら、風疹の全国的な流行と同じように日本全国でがん検診なり調査なりを行なうべき事態だと思う。だが行なわれない。危険ではないと自治体は言い張る。これに関して何かを規制したりということはまったく行なわれようとしない。
 原子力規制委員会が敦賀原発の真下には活断層があると認定した。これによって敦賀は廃炉を余儀なくされそうである。しかしこれに対して敦賀市議会は大反発。自民党が作る「電力安定供給推進議員連盟」でも規制委員会はなんとかならないかと不満が爆発寸前だと。規制は安全の為に行なわれているわけであり、それに反発するということは、すなわちわずかな危険の可能性については目をつぶり、原発によって得られる利益を優先するということだ。つまり、市民国民の健康のことは二の次三の次ということに他ならない。
 では、どうするのが正しいのだろうか。いくつかの可能性がある。まずは「安全に不安が残る何かについては例外無く規制をする」ということ。次に「安全への不安はとりあえず置いておいて、儲かる為には一定レベル未満の危険については目を閉じて規制はしない」ということ。路上弁当販売の規制について強い口調で激論コメントを寄せていた人は僕に対しても「だからお前はどっちなんだよ、何でも規制なのか、それとも規制一切無しなのか」と問いつめてきそうだ。
 だが僕の答えはどちらでもない。いくつかのファクターを加味しなければ意味が無いからだ。そのファクターとは、規制の対象の在り様と、規制によって失われる選択肢と、規制する側の論理である。
 規制の対象の在り様とは、例えば弁当規制であれば路上販売をする弁当屋であり、原発関連であれば電力会社などである。それを見るとまず言えるのが、小さく弱い者は簡単に規制され、大きく強いものは規制されないということである。これはやはりおかしい。本当に安全至上主義なのであれば、大きかろうと小さかろうと規制すべきなのだ。そして規制することによって市民ひとりひとりの権益が失われてしまうことが問題なのであれば、大きかろうと小さかろうと規制すべきではない。しかし現実としては、大きいものは見逃され、小さいものは規制される。そこには安全に対する配慮とは別の論理が働いている、いや別の論理しか働いていないとしか思われない。
 規制によって失われる選択肢とはなにか。例えば路上弁当であれば、そのエリアで昼食をとる人たちがどんな昼食を選ぶのかということについての選択肢のひとつが完全に無くなるということである。そこには自己責任というものが存在しない。「食中毒になっても弁当屋を訴えるなよ」と言う人がいたが、「食中毒になっても弁当屋を訴えない、その代わりに路上販売の弁当を食いたい」という人が現れたらどうするのか。どうにも出来ない。「オレは命より1コイン弁当だ」という選択をする自由は、ある意味憲法で保証されているとも言える。だがそれを規制は排除するのだ。そのエリアにいる「路上弁当で食中毒になりたくない」という人と「食中毒のリスクを招致で1コイン弁当を食べたい」という人の、両方の選択肢が尊重されるべきなのだが、残念ながら規制は一方のみの選択肢だけを残す結果になってしまう。
 では原発関連はどうだろうか。原発のリスクというのは個々に関わってくるのではなく、地域全体が負わなければならないリスクになる。弁当であれば周囲の99人が食べても自分だけが食べなければリスクを回避することができる。要はリスク管理を自分で行なうことが出来る種類のものだ。だが原発事故は地域に住めば自分だけが回避出来るような種類のリスクではない。つまり原発を動かすということは、万が一のリスクを住民すべてに課すのであって、規制をするかしないかというのは必ず一方の選択肢のみを残す結果となる。
 原発問題についてはいろいろな議論がある。経済的に動かさねばならないという意見もあれば、危険を回避することが何より大事という意見もある。どちらの意見を通しても、逆の意見を否定することになる。経済力低下のリスクを無理強いするのも横暴なら、自己の不安を無理強いするのもまた横暴である。しかしこの問題については、どちらかしかない。動かすか動かさないかしかなく、そのどちらになっても他方へ我慢を強いることになる。解決は本当に難しい。
 しかし、路上弁当の規制は、知恵と努力で中間での妥協が可能な話だ。安全をチェックし、それが確認されるものは販売を許可し、万が一事故が起きた場合の罰則を明確にすることさえ出来れば、食中毒の危険を回避し、安い弁当を求める人の要求も満たされる。だがそれを「安全」を盾に一斉に規制しようという動きが簡単に起きる。安全とはそれほどに重要な話なのか。だとすれば、原発も「安全」を大義名分として、万が一のリスクをも避ける為に禁止すればいい。だがそれは行なわれない。それがやはりこの国のおかしなところだと思う。

才能との出会い

 先日、恵文社一乗寺店に行った。家原恵太作品展を見るために。家原恵太とは、僕が注目しているアーチストである。
 
 それはほぼ一年半ほど前だっただろうか、同じ恵文社一乗寺店で彼の展覧会を偶然見た。その時のあるひとつの作品がとても素晴らしく、ファンになった。その時は会期も終わりに近く、手頃な値段の作品はほぼ売れていたので何も買えず、ポストカードを5枚ほど購入した。
 その後彼のTwitterとfacebookをフォロー。イイねなどしてるうちになんとなく親交がうまれてきた。面識の無いアーチストと直接つながることができる。ここが現代の面白いところだ。相変わらず面識は無いものの。
 そして今回の展覧会。僕は初日の午前に見に行って、中くらいの作品をひとつ購入した。
 僕は普段音楽の仕事をしてて、まったく無名のバンドを発掘したりしている。そういう意味では才能との出会いは日常茶飯事なのだが、音楽以外ではなかなかそういう機会はない。だから家原恵太氏との出会いはとても面白かったし、興味深いものだった。今回買った作品が、彼が将来大作家になることで価値が上がるかもしれない。そうなれば最高だが、そうならなかったとしても気に入った作品は僕の手元に残る。それで十分だ。一度でも感動をさせてくれた若手作家に対するお礼の意味というか、応援の意味でも、僕は作品を購入したいと思ったのだった。
 
 音楽の仕事をしていて、今は音楽にお金を使わないという方向に向かっていると感じている。YouTubeで聴けばいい。聴き放題サービスもどんどん始まる。何でも無料だ。だがそれではアーチストは育たない。もちろん何にでも払えというのではない。だが良いものにお金を払うということはあるべきだと思うのだ。そうしないと、自分の感動さえ無料ということになる。価値が無かったものということになる。
 そして昨日土曜日、僕は再び恵文社一乗寺店に行った。在廊している家原氏と初めて会う為に。初めてなのだが、初めての気がしない。不思議だな、SNSの世界は。
 そこでいろいろな話をした。絵の値段についても質問した。僕自身以前カフェをやっていた時に若手アーチストの展覧会をカフェ内でやったことがあって、その時に自分の作品に値段を付けることに苦悩している彼らの姿を見て、値段を付けるというのは難しいことだなあと感じたからだ。家原氏は「そこは自分自身の感覚でつけるわけで、どうしても安くしたいという気持ちもあるんだけれど、それではダメだと思う」と言っていた。知人から「あまり安くするとそのことでお客さんは価値を感じなくなる」といわれたということも言っていた。なるほどなと思った。
 僕もミュージシャンと接する時に、どうしてもCDの値段を安くしたがるのを諌めることがある。それは安くしすぎるとビジネスにならないという側面も大きいのだが、同時に安くするから売れるというのが幻想に過ぎないということも知っているからだ。ライブハウスで300円のCD-Rと2000円のCDを売っていると、どういうわけか2000円のCDの方が売れる。人は音楽そのもののデータよりも、きちんとしたものに価値を見いだすのだろう。それはキチンとしたものだからこそ、そのアーチストの意気込みも伝わるということなのだろう。もちろんそれだけではないが、そういう側面もある。だからある程度の値段はあって然るべきだし、それを受けるユーザーの側も、感動したのであれば、そして応援したいという気持ちがあるのなら、それなりの対価を払う気持ちを持つべきだろうと思う。そういう気持ちで、僕は彼の作品をひとつ購入してみた。金欠の折り、一番高い作品を買う余裕はなかったのだけれども。
 恵文社一乗寺店での彼の展覧会は明日月曜日まで。週末の今日など、お近くの方は出かけてみてはいかがだろうか。

大きな地図で見る
恵文社一乗寺店 http://www.keibunsha-books.com/html/page13.html

甘ちゃんの経済と愛

 今日Twitterである問いかけを受けた。僕が
「しかしまあ、育休中のママに在宅勤務などというふざけたことを言ってるやつらが社会のトップを勤めている間は、まだまだ精神世界の貧しい後進国だと思うよオレ。社員は24時間365日働けって言ってるヤツが国会議員になりそうな勢いだもんね。」
とつぶやき、さらに発展して
「もちろん子供がいない生き方も、結婚しない生き方も同等に価値も意味もある。それぞれの境遇の中でそれぞれが尊重されて、生き方を自分で決められる、それが保証されているのが生存権なんじゃないかと思う。実際には働かなきゃいけないし、そうそう自由ではないんだけれども。」
とつぶやいたことに対し、
「子供を産まない、結婚しない人の老後の年金の受け取りは半額にするべき」
というご意見だった。その人のいうこともわからないではない。今の年金制度では現役世代が老後世代を面倒見るという形になってしまっている。少子化が進み平均寿命も伸びていく中で今後若者1人あたりの負担は増えていく。そういう中で子供を産まなかった人たちは育児の為の費用や時間を負担していないのだからその分年金などの受け取りも減らされて然るべきだと。支離滅裂な暴論とまでは言い難い、ある意味理にかなっている主張だ。
 だが、僕はその論にはどうしても乗れない。
 子供を育てるということをこの1年近くやって来て、負担も増えるだろうが、喜びも増えるということを学んだ。子供の教育のことを考えて、うちではテレビの視聴をかなり減らした。当然テレビでDVDの映画を観るということもないし、映画館に行って2時間楽しむということもほとんど無くなった。夫婦だけの生活では当たり前だったことがどんどん無くなっている。でもそれは苦痛ではない。子供と一緒にやることが多いからだ。それまで当たり前の生活パターンはそれなりに面白かった。今も独身の友人はたくさんいるが、彼らの生活もそれなりに充実していると思う。自分がそうだったように、独身生活というのはけっして悪いものではない。だが今こうやって子供との生活に突入してしまうと、それ以外の生活は考えにくい。そして充実している。この充実感を与えてくれて息子よありがとうと心から思う。時間やお金の負担が増えたとしても、それに見合うだけの喜びは確実にある。何かの代償を国に求めるなんて気持ちはさらさら無い。
 もちろん、子育てにはお金もかかる。だから児童手当がいただけるのはありがたい。でも、それは子供を育てる為の足しにするという考え方なのであって、僕ら親が子供を育てたご褒美としてもらうのではない。あくまで子供の成長に必要なものを買ったりするのに使うものである。子育て未経験者の年金を減らすというのは、言い換えれば子育て経験者の年金をそれ以外に較べて増やすということでもあって、子育てが終わった人たちの老後にご褒美としてあげましょうということでしかない。それは子供の成長に寄与するものではなく、子育てをした人へのインセンティブである。それは違うと思う。そんなお金なら要りません。子育てをした人へのご褒美は子供の笑顔なのだと思う。それで十分である。
 うちの奥さんとよく話すのだが、なぜうちの息子はうちに生まれて来たのだろうか。それは浮遊している魂が既にあって、空中からどの家に生まれようかと探しているのではないかと。そして目を付けた男女がいたら、そいつら(僕ら夫婦のこと)を出会わせたのも息子の生前の魂の仕業で、どのタイミングで生まれてくるのかも息子の仕業なのだと。だからこの子はこの家に生まれるべくして生まれて来たのではないか。今のところ夫婦の間ではそういう結論になっている。別に宗教的に何か考えていたりとか、スピリチュアルなものが大好きとかなのではない。むしろそういうのを信じないタイプのふたりだ。でも、息子を見ていると、なぜこの子が今ここにいるのか本当に不思議だし、そういう理由を付けなければ理解出来ない。授かりものという言葉はなるほどなあと実感&納得出来る。
 そうだとすると、息子はもっと裕福でしっかりした他の両親の家に生まれることも出来たはずなのに、敢えて僕ら夫婦を選び、彼の全人生を僕らに委ねて生まれて来て、今この部屋に暮らしている。今頼れるのは僕ら両親だけなのだ。その覚悟、潔さを僕はどう考えればいいのか、受け止めればいいのか。大人の僕がビビっているわけにはいかない。全人生を僕らに賭けたあの小さな命の覚悟に応えるために、親はどこまでの覚悟で腹を括ればいいのか。それはもう無限大の覚悟に他ならない。年金がどうとか、そんな経済如きの小さな話の種にされたくはないし、されるべきではないと思う。
 安倍政権がいろいろと子育てについての政策を打ち出そうとしているのはよく判る。縦割り行政の弊害を放置して何もしてこなかったこれまでの政権に較べれば進歩と言えなくもない。だが、どうも現実とかけ離れた策になっているような気がしてならない。育児中のママが保育所に入れることなく在宅勤務を1日4時間なんてことが言われたりすると、その案を考えている人は子育てなんてしたことないんじゃないかと本気で思う。赤ちゃんの昼寝は睡眠薬で眠らせるとでも思っているんじゃないだろうか。経済を回す為に何が必要で、そのために将来の人口となる出生率がどうだとか、女性の労働力をどう活かそうとか、基本的に経済論理を中心にして検討されているように感じられる。それが突破口になって何かが良い方向に変わってくれるのであればそれも良しとしなければいけないのかもしれないが、子供や家庭のことを考えるのであれば、まずは経済より愛をベースに考えられないものかなと思う。その愛を実現させる為の経済的な裏付けを必要とするのであって、経済を豊かにする為に突き進んで愛が置き去りにされると、結局そこに幸せは生まれないんだと、甘ちゃんの僕はちょっと思う。

TIMBUKTU

 ポールオースターのTIMBUKTUを読了。

 ポールオースターは大好きな作家。8年ほど前にOracle Nightを読んで以来、ずっとファンだ。ファンなのに8年かけて全部読めてはいない。たいした能力も無いのに洋書で読んだりしているからだ。辞書を引きながら読む。とにかく時間がかかる。しかし読み続けているうちになんとか読み終わったりするし、英語に対するアレルギーみたいなものは感じなくなった。今僕がfacebookで多くの外国の方々と英語ベースで交流をすることが出来ているのもこの洋書の読書が大きなベースになっていると思う。
 それに洋書には洋書の利点がある。ペーパーバックは1000円程度。翻訳物だと上下巻で各1500円なんて普通なので、値段は約1/3。それに翻訳が出ていない作品もたくさんある。ポールオースターのように現代の作家で、今でも毎年のように作品を発表する人の作品は、4~5年遅れで翻訳されるのを待つか、洋書で読むかのどちらかになる。ある種の究極の選択ではあるけれど、苦労して読むだけの価値は十分にあると思っている。
 さて、今回読んだTIMBUKTUだが、表紙にも犬の写真が使われているが、この小説の主人公は犬である。ミスターボーンズという名の犬が経験していく冒険譚。いや冒険というのは自ら望んでそこに足を踏み入れるわけで、この話はちょっと違う。冒険というより成り行きの出来事の連続というか、まあそんな展開のストーリー。出来事をひとつひとつ追っていくというよりも、その出来事の中で犬が考えていることを中心に語られていく。具体的な内容はあまり言ってはいけないと思うし、amazonの解説に書いてあることは「ふーんそうだったの」というくらいにしか思えないことでしかないし、だから僕が詳しく思ったことを書いたところで誤解を生む以外にないと思うわけなので、ここでは当然のことながら書かない。でもそれでは「読了しました」という報告に終わってしまうので、感じたことをなるべく内容に触れないような感じで書いてみたい。それも邪魔だという人は、どうぞこの辺で読むのをやめてください。
 犬の視点で書かれているものの、僕には人間の一生も同じようなものだという気分になりながら読んでいた。amazonの説明によると「犬の視点を通してアメリカのホームレスを描いた作品」なのだそうだ。そんなことはまったく思いもよらなかったが、まあいわれてみると確かにそうかもと思う。ではホームレスとそうではない人の境目とは一体なんなんだろうか。それが僕にはよく判らない。家が有るか無いか?そんなことで問題は解決なのだろうか。超豪邸に住んでいる人からすれば、僕などの住む賃貸マンションなどは家が有ると認定するレベルには無いのかもしれないし。ホームレスにも家はある。毎日通る鴨川の橋の下にはブルーシートの家が有る。時々その中からラジオの音が聴こえてきたりする。ブルーシートにつながれた犬もいる。その犬は青い家の住人のペットなのだろう。それはホームレスと呼ぶべきなのか?僕にはよく判らない。
 自分の行動パターンも、一般的な会社員からはほど遠い。出勤の定時もない。川沿いを歩いて通勤して、気分次第で回り道をしても怒られるわけでもない。給料を固定でもらっているという認識も無い。特に最近の不況の影響なのか、給料をまともにもらえないこともしばしばだ。もらうといっても、それは自分で決める話なのだから、もらっているという観念すらない。そういう生き方は、人間の生き方なのか。ホームレスとそれ以外を分ける明確な線が有ったとして、僕はどっちの人間なのだろうか。もちろん一応家はある。賃貸だけれども住所はある。だからホームレスではないのかもしれない。だがいつホームレスになるかもしれないという怖れは無いわけではない。今のように安定が無くなってきた時代には、そういう恐怖感を一切感じないという人も少ないのではないか。同僚がリストラに遭ったりしたら、自分もそのうちにという気持ちが必ず芽生える。芽生えなかったとしたら相当に抜けているか、相当の自信家ということだろう。普通の人は明日自分がどうなったとしても不思議は無いと思うはずだ。
 小説の中の犬はいろいろな状況に身を置くハメになり、その度毎につらい思いを経験する。だが完全に絶望的なつらい思いではなく、一部ハートウォーミングな思いも経験する。完全な絶望も完全な喜びも無く、日々は過ぎていく。そのバランスをどこで取るのか。それは僕らの生活も同じことだと思う。ちょっと絶望に近いところでバランスを取ると景色は暗くなるのだろうし、喜びに近いところでバランスを取ると明るく見えるのだと思う。同じ状態でも支点の置き方で見え方が変わってくるのだとすれば、明るく見えるようにした方がいい。主人公のミスターボーンズは支点をどう置くかということではなく、力点を置く場所をついつい選んでしまう。ちょっとした喜びにすがるように行動を決めるため、結局は絶望的状況の中に封じ込められてしまったりする。絶望的状況はさらなる状況の悪化を生む。やがて力点を置くのではだめなのだと気付くのか、希望の中に身を置くことから距離を置き始める。でもそれは必ずしも幸せなことにつながらない。
 僕はこの犬の話を読んで、感情移入をしたのだろうか。amazonの説明にあるように、ポールオースター自身がホームレスを犬の視点で描いたのだとすれば、直接的な感情移入を避けるという効用を狙っていたのではないだろうか。それとも身近な飼い犬というオブラートで包むことで最初からの嫌悪を取り除いて感情移入しやすくしているのだろうか。どっちとも考えられる。だが、結局僕はこの犬に感情移入した。嬉しい出来事が起きれば僕も嬉しくなったし、つらい出来事が起きればハラハラしてドキドキした。その辺がポールオースターのストーリーテラーとして優れたところなのだろう。アメリカの現代作家には、ものすごく難解な「文学」を書く人もいるし、逆に徹底的なエンターテイメントやミステリーを書く人もいる。そういう中でポールオースターは、現代のテンポラリーアート的な立ち位置の小説を得意としながらも、完全に「文学」という結果にはならず、物語としても面白く、同時に単純ではないという、極めてバランスのとれた作品を書き続けている。このTIMBUKTUは、そんな彼の中でも特に読みやすい、大衆娯楽小説に近い作品だったと思う。難しい小説だと同時並行的に複数のストーリーが展開していく。そのすべてが個性の強い設定と登場人物によって展開するので、読んでいて自分がどこにいるのかわからなくなってしまう。だがこのTIMBUKTUでは基本的に平行して進むお話はない。主人公ミスターボーンズの視点で見えるものだけを書いている。だからわかり易い。
 もしポールオースターに興味を持ったなら、最初に読むにはちょうどいい作品だともいえるだろう。もちろん洋書で読む必要などまったく無いです。

白い月

 SONGS、松田聖子の回を見た。その中で彼女が「17の時の気持ちが今も変わらない」と言っていた。
 これ、すごくよくわかる。なぜなら僕自身も高校生時代の気持ちと基本的に変わっていないからだ。少しばかり誤解を生みそうな表現で、もちろん色々な経験を経てまったく同じ考え方というわけではない。でも高校生の当時には、40代後半なんて超大人って気がしていた。この場合の超大人というと、四十而不惑である。惑わないのだ。だが自分の40歳なんて惑いっ放し。きっとあの頃見ていた40歳も惑っていたんだろうけれど、そうは見えなかった。だから自分も年齢を重ねれば大人になれるんだと思っていたのだが、結局40にして惑う。もう毎日惑いまくり。惑いまくってあと1年半で50だ。50にして天命を知るのか?いや、知ったりはしないだろう。引き続き惑っているだろう。
 それはともかく、
 番組では久保田利伸による新曲を歌っていた。これがまた見事に久保田利伸。デビューして「流星のサドル」「Missing」などの超売れ線楽曲でヒットを飛ばしたあと、「BONGA WANGA」で突然のアフリカンミュージックに突入し、以後の音楽性も非常に紆余曲折してきた彼だが、こうやって今楽曲を提供するのはキッチリとしたポップバラードで、デビュー当時を彷彿とさせるような久保田節を聴かせているのがある意味すごいなあと感じる。
 一方の松田聖子も、そんなに久保田色が出ている楽曲なのに、歌ってみるとそれはやはり松田聖子の歌になっていて、これもすごいと思う。
 多くのバンドと一緒に仕事をしていて、そのバンドに力があるのかどうかを判断するのにはカバーをやるのが一番だとよく言っている。なぜかというと、力がないと、カバーではなくてコピーになってしまうからだ。この場合の力というのは個性という言葉で置き換えることも出来るかもしれない。自分という主体が強ければ、どんな曲をやってもそれはカバーになる。だが自分のスタイルというものを確立していないバンドであれば、結局他人の楽曲をやったときに本歌のスタイルをなぞるだけという結果にならざるを得ないのだ。世の中には自分のオリジナル楽曲を演奏しているバンドは山のようにいるけれども、単に自分の作った曲をやっているからそれが自分のスタイルだと勘違いしているケースも多い。本歌がないからオリジナリティなのではない。自分のスタイルがあるからオリジナリティなのである。そういうバンドのライブは、ただ単にメロディにあわせて音を鳴らしているだけになってしまい、結局面白みなどはまったく無いということになる。だからつまらないのだ。
 その点、やはり音楽の世界のトップランナーといって間違いない2人の楽曲と歌は、それぞれが自分のスタイルというものを明確に打ち出していた。久保田や松田聖子の音楽性が良いとか悪いとか好きとか嫌いとかに関係なく、スタイルを持っているという点で、この2人はやはりすごいと思った。

にわかな国際化

 キラキラレコードはどんなジャンルなんですかと聞かれることはしばしばだ。だがそう聞かれていつも困る。なぜなら特定のジャンルに偏ったりするつもりは無いからだ。そもそも僕の音楽業界人としてのスタートはビクターレコードであり、そこで営業の仕事から始めた当時の僕は、クラシックだろうとジャズだろうと童謡だろうと落語のCDだろうと構わずに売っていた。レコード会社とはそういうものであり、特定のジャンルに特化するのはおかしな話だと今も思っている。
 とはいえ、どうしても邦楽ロックを中心としたアーチストが並ぶのもインディーズというものの宿命ではある。それにそもそも自分の得意分野が邦楽ロックなので苦痛ではない。ただしレーベルのラインナップが偏るのはできれば避けたい。ということで、2007年にはオーストリア人のロックCDをリリースした。ついに洋楽をリリースしたわけである。とはいってもそのアーチストは日本在住で、下北沢でストリートライブをやっていた人だった。その人の彼女が日本人で、結婚して日本永住しようかと悩んでいた。それを洋楽と呼んでいいのか?まあ日本人じゃないからいいか〜、という程度の、ある意味「なんちゃって洋楽」だったわけである。
 それから6年の月日が流れ、キラキラレコードも京都に移り、いろいろな変化を体験してきた。そんな中最近にわかに起こってきているのが国際化である。もう5ヶ月くらい交渉をしているドイツのバンドがいる。日本でCDをリリースしたいというのだ。ドイツ人とイギリス人が組んでいるバンドで、活動拠点はドイツなのだが、歌詞は英語。リーダーのミュージシャンとのコミュニケーションは基本英語。メールでなんとかやり取りをしている。facebookのフレンド同士になり、お互いのプライベートの状況なども知っている。直接会ったこともないのにもうすっかり友人のような気分である。ついでに言えば、彼の住所もわかってるし、Googleマップのストリートビューでどんな街並なのかも知っている。すごく身近に感じられる。世界は狭くなった。
 このバンドとはCDリリースについてほぼ契約寸前で、この週末に書面に署名して返送してくれることになっている。きちんと進めば7月後半にはリリースの運びとなる。それ以外にも今現在複数の海外アーチストのCDを日本でリリースする話が進行している。CDがまだまだ音楽流通のメインにあるという日本の特殊事情がそういうニーズを生んでいるのだろうが、だとしても、数年前だとそういう海外ミュージシャンとの接点がまず持てなかった。それが比較的簡単に出来るようになってきたというのが、とても面白いと思うし、可能性を感じる。こちらから海外へのアプローチもどんどんしていけるだろうし、そのノウハウが積み重なれば、海外のレーベルと提携して日本のミュージシャンを全世界ツアーに送り出すこともそう遠くないことなのかもしれないと思う。
 また、CDのプレスも海外に直接発注するようになった。国内のプレス会社や、海外に工場を持つ国内のプレス窓口会社などとの付き合いも依然としてあるが、海外の工場で生産するのであればダイレクトに発注しても品質に問題はないし、間に業者を入れない分コストも下がる。CDプレスの会社も日本の仕事を取りたいのか、直接営業をかけてくるようになった。ネイティブとはいえない日本語のメールでの営業なので文面は高飛車な表現に感じることもあるけれど、実際はすごく積極的で、すごく丁寧な対応をしてくれる。先日もわざわざ海外から国際電話をかけてきた。僕が英語で話せばいいのかもしれないけれど、向こうが日本語で一生懸命に話してくれるので、回りくどい感じではあったが日本語で会話した。それだけでもとても好感が持てる。
 実際にモノを送るのに時間がかかったり、代金の支払いで手数料がすごくかかったりするというネックはあるけれども、そういうことがグローバル化なのだろうという気がする。もちろん国内の工場や窓口会社の仕事や雇用をどうするのかといった問題はある。だがそのことを僕が考えるより前に、このグローバル化によって海外からの仕事を獲得することによって、ほんの微々たるものであっても日本経済に貢献する方が建設的だとも思う。日本におけるサービスが海外の人にメリットがあると考えられて、それによって外貨の獲得につながるのなら、それは誰にとっても幸せなことだ。
 日本のバンドと話をする時に、特に東京のバンドからは「直接会って話をしてみないと何ともいえない」ということをいわれることが多い。もちろんそうだ。直接会って話をすることによる情報量は圧倒的に多い。来てくれるなら普通に会う気まんまんだが、それはどうも嫌なのだと。東京に来て会って欲しいと。まあそれは理想なんだろうけれども、諸事情によってなかなか難しかったりする。だからもうそれ以上の話を続けるのは嫌だというのなら、それはそのバンドマンの選択であり哲学なんだろうと思う。それを責めるつもりはさらさらない。だが、こうやって海外から日本の小さなレーベルに対してどん欲にアプローチをかけてくるバンドや工場があることを考えると、東京と京都くらいのことで遠いとか、会わないと話が出来ないとか言うのはなんという機会の損失だろうかと思う。東京に事務所を構えていた頃、関西や九州などのバンドマンはそういうことはほとんど言わなかったし、電話やメール、スカイプなどで十分にコミュニケーションを取ることが出来た。今も東京などのバンドマンたちとスカイプでミーティングを繰り返している。世界はどんどん小さくなっている。技術的な発展の恩恵をすごく感じている。だが、今でもそうやって距離の問題や肌で何かを感じたいという問題によって自分の可能性を閉ざしているバンドマンのことを見ると、やはりとても残念な気がしてならない。
 そんな愚痴を言いたいのではなかった。少なくとも、僕自身はネットを中心とした技術の発展が、こうした国際化という恩恵をもたらしたと感じているし、感謝もしている。それを使って可能性を広げていくのか、それとも閉じたままで生きていくのか。その選択が自分を変えていく大きな分岐点なのだろうと思う。もちろんリスクもあると思う。広げないという選択にも意味はあるだろうと思う。だが僕は広がっていく方向に進んでいきたい。
 そんなことを考えさせる、この数日の世界とのやり取りだった。