月別アーカイブ: 2014年12月

雑感2014

言うまでもないが、2014個の雑感ではない。そんなにあるかよ。

 

今年は育児に懸命だった。まあ言うほど必死感は無いのだが、普通に保育園の送り迎えをし、休日には一緒に遊ぶ。当然平日の日中は仕事に集中する。息抜きに街を出歩くなどする余裕はない。結果、観た映画はわずかに1本、読書量も大幅に減った。

 

TwitterやFacebookでは知人が新作映画を楽しんでいる様子が伝わってくる。元来映画が大好きで、独身の頃は新作が始まると先行オールナイトに出かけた僕だから、それをくだらないことと揶揄するつもりはない。いいなあ、羨ましいなあと思うくらいだ。でも、様々な要因で選択している優先順位の中で、今は映画は結構下位になっている。知人の中でそれが僕より上位にあっても不思議ではないし、単に状況や価値観に違いがあるだけのこと。数年すれば僕もまた映画に行きまくるかもしれない。

 

で、映画に行かない数年の間にも、新作はどんどん作られる。周囲がそれを観て、僕が観ていない。取り残される感があるのかというと、そうでもなかったりする。全てを見聞きするのは元来不可能なことだからだ。

 

キャッチアップすることが大切なのではない。自分の人生の中でその人生をどう豊穣にするのか、その助けにするのかが大切なこと。もし仮に余命1年と宣告されたら、それでも好きな映画をキャッチアップすべきなのか?答えは自明であろう。映画は2年後にもどんどん制作される。5年後も10年後も。余命宣告などされずとも、50歳の僕が50年後の映画を追えることはほぼ不可能だ。

 

世の中にある書籍をすべて読むことは不可能である。その辺の普通の規模の図書館でさえ一生かかっても読み切れない。音楽のプロであるはずの僕自身が現在の音楽シーンを網羅するほどに聴くことは不可能だと感じる。ましてや趣味のあれやこれやをコンプリートすることなど叶わぬ。現在進行形で作られて未来にもずっと続く果てしない産業の果実を追うことは不可能だ。それは果物店に並ぶ果実をすべて食べたいと買い占めることに似ている。買うことにも無理があれば、買ったとしても食い切れぬ。食べ放題の店に行っても、在庫の食材をすべて腹に収めるなどあり得ないことなのだ。

 

そんな2014年、僕の中での最重要事項である息子の成育。これさえもコンプリートで鑑賞することは叶わぬのだ。保育園に行くことで彼の社会は広がる。そこでの出来事はある意味ブラックボックスで、見ることはできない。育っていけば友人との時間も増えるだろうし、恋人とのあれこれは父親になど明かさないもの。既に先日まで帰省していた実家では、幼い頃には毎日僕にじゃれついてきた高校生中学生の姪っ子甥っ子も自分たちの世界を持ち、僕と触れ合うことはほとんどなくなった。それで良いのだと思う。子供達が成人し老いていくのを全て観察することは不可能なことであり、願ってはならないことである。

 

映画も子育ても、そして仕事も、自分の人生をその時々で彩ってくれる要素にすぎない。あるものは趣味として、あるものは義務として。あるものは責任として。何をも取り払い24時間に対峙するなどというのは、人間のひ弱な精神には耐え切れぬ拷問である。だから目先の重大事として存在してくれる何かがそれぞれにあるのだろう。自分には重大な何かも、他人にとってはまるでどうでもいいことでしかない。つまりは、自分にとっての重大な何かも、結局はどうでもいいことに過ぎない。自分がその任を突然離れても、世の中は普通に回って行く。こだわっているのは、自分という存在には有用な価値があるはずだという思い込みにすぎない。

 

そう思えば、全ては余暇であり、仕方なく生きねばならない人生というもののエッセンス程度であることが解る。僕の喜びも悩みも、地球の裏側の人に解るはずもなく、同様に地球の裏側の人の悩みも僕には到底解り得ない。今年の重大ニュースはあれとこれだなどと思い巡らせても、昨年の重大ニュースが何かと問われれば、さて何だったかといくら首を捻っても思い出せない。

人生とはそのようなものだ。運が良くてもせいぜい80回ほどしか桜を愛でることはできないうたかたの些事にしかすぎない。あれやこれやと思い悩むヒマなど無い。そんな中、同時代の同時期に共通のテーマを大切にする限られた仲間と、一瞬でも何かを共有できれば、それで上出来なのではないだろうか。

 

そんなことを、奥さんの実家で布団の中に潜りながら考えてみた。どうでもいいことで、みんなが起きるまでの時間を潰したにすぎない。

 

さあ、あともう少しで2015年がやってくる。どんな無駄な出来事が起きるのだろうか。楽しく時間を潰せれば幸いだ。

俄には信じられぬこと

 先週末、北朝鮮の金正恩を暗殺する内容の映画がサイバーテロに遭って公開断念というニュースが流れてきた。

 とてももっともらしい。これまでの北朝鮮のことを考えれば、いかにもやりそうなと、ツイツイ思ってしまう。だが、本当にそういう認識で良いのだろうか?

 今回の件、基本的にはアメリカからのニュースという感じで入ってきた。ハリウッドで北朝鮮のことを題材にした映画が作られたと。主人公が金正恩(らしき人物)に直接インタビューをしに乗り込むのだが、実はCIAで暗殺を計画していたという、そんなあらすじ(詳しくは各自で)。その映画に腹を立てた北朝鮮がサイバーテロをしかけ、ソニーピクチャーズの社員個人情報をバラまいたとか、公開予定映画館へテロ予告が届いたとか。サイバーテロに使われたソフトのコードが以前も北朝鮮からのサイバーテロで使用されたものと酷似しているとかで、一部劇場が上映を取りやめたという報道がされ、今度はソニーが公開を断念するという報道になり、ついにはオバマも「許さない」という話に。

 で、許さない結果、ソニーが公開断念によって生じた利益の賠償を求めるという話になってて、それって大統領が関与する話なのかとひっくり返りそうになった。

 この話、どうにも俄には信じられない。

 まず、お膳立てがすべてアメリカによって揃えられているということ。映画を作ったのもアメリカ。公開をしようとしたのもアメリカ。サイバーテロを受けたというのもアメリカ。公開を断念したというのもアメリカ。サイバーテロのコードが北朝鮮由来だと言っているのもアメリカ。公開断念をして、永久にお蔵入りなのかと一部で言われてて、ソニー幹部はテレビで「DVD発売などの方法を模索している」と話していて、で、今朝ほどにCrackleで無料公開することになったと。

 どうにも思い起こされてしまうのは911直後のイラク侵攻だ。当時のブッシュ政権はイラクのフセイン大統領(当時)が悪の枢軸であると主張し、イラクはUNMOVICの査察を受け入れ、大量破壊兵器は見つからなかったものの、米英で国連決議を経ずに攻撃を開始した。結局フセインは捕らえられたものの、大量破壊兵器とやらは見つからず終い。

 その後の中東を見ると、イラクフセインという重しが外されたからなのか、さらに制御不能なテロ組織が勢力を伸ばして無法地帯になりつつある。

 アメリカは今回の件を端緒に北朝鮮へのテロ支援国家指定を再度認定しようという動きがあるようだ。まったくの推測妄想の類いだが、今回の件はキューバとの国交回復とリンクしているように思われる。キューバとの国交回復については国内でも様々な議論があり、概ね好意的だという中にも不安を抱く層もある。不安というだけならアレだが、仮想敵国の存在によって軍需産業というものは成立するわけで、そういう意味ではこれまでキューバが仮想敵としての役割を果たしてきた。だがそことの国交が回復したら、新たな仮想敵が必要になるのは必須で、そのためには北朝鮮がアメリカ国内でテロを起こす可能性があるということを暗に想起させるようなきっかけが必要だったのではないだろうか。まあそこまで踏み込んで断言する材料などはまったく無いので、本当に妄想でしかないとご理解いただきたいけれども、ともかく、今回の件についてはすべての情報がアメリカから提供されているということは頭の片隅に留めておいて損はないと思う。北朝鮮はアメリカと共同で真相の究明をと提案したそうだが、それはCIAの手のうちを北朝鮮に晒すということでもあるので、アメリカが受け入れるはずはない。まあそれを承知の上で言ってるんだろうけれども、もし仮にこれがアメリカ側の自作自演だったとすれば、北朝鮮としてはいっしょに解明しようと言いたくもなるところだろう。

 真相はやがてすべての公文書が公開されればわかることでもある。まあここ数日の秘密文書が公開されるまで、僕が生きているという保証は無いし、北朝鮮という国家が存続している保証もない。そして仮に僕も北朝鮮もアメリカもその時に存続していたとしても、僕の興味が持続している可能性は限りなくゼロに近いわけではあるが。

 あ、もちろんのことだけれども、北朝鮮を擁護しようという意図はまったく無い。実際に他国民を拉致していまだに解決していないような国家なので、それをトータルな意味で擁護するようなことをするはずは無い。だが、行ったことを適切に非難していくためには、それ以外のことでも適切に冷静に対応することが必要なのだと思う。これは北朝鮮に限らないこととして。なので、いかにもやりそうな国だからやってるに違いないという根拠無き断定は、結局自分たちのためにもならないんじゃないかと、そう思っただけのことである。

地方と国政

 いやあ、昨日のブログは全然響かなかったようだ。個人宛てに、しかも面識のない匿名の人宛てに書くことなんて普通しないんだが、5000文字超の文章をわざわざ書いたのに「自己完結型の人」とエアリプされてた様子。まあ仕方ない。自己完結型で行くしかないのかもしれん。

 
 それはさておき、今回維新の橋下代表と松井幹事長が現職を辞して国政に出るのかと騒がれたけれども、結局出馬せず。これ、現実論としては彼らにとって正しい選択だったと思っている。

 まず、今回維新はほとんど数を減らしていないにもかかわらず、橋下市長は「惨敗だ」と言っていた。これについて誰かが言っててなるほどと思ったことがある。橋下派は30→20に半減。江田派は10→10で不変。その他10人。そのなかに松木謙公氏以下小沢(生活の党)系の議員が5人。まあ30→20が半減なのはともかく、橋下市長の威信にかげりがあるのは事実なのだろう。野党結集に傾く江田氏系と元々野党結集を目指す小沢系が維新の舵取りで大きな役割を担うようになれば、橋下ー慎太郎による前回の維新とはまったく違った方向に進んでいくことになるはずだ。偽野党だったヨシミも政界を去ったし、野党勢力の結集&立て直しという意味では、今回の選挙は悪くないし、安倍晋三も地味に墓穴を掘り始めたという感はある。

 で、なぜ橋下氏が地方首長を辞さなかったのが正解なのかというと、私見だが、今回の選挙でかつて話題を集めていた地方の首長が軒並み姿を消したということ。前回で既に田中康夫氏が姿を消し、東国原氏は国政にも都知事にも出られず姿を消していた。石原慎太郎も落選し、同じ次世代の党候補だった中田宏氏、山田宏氏も去った。松沢成文氏は前回参院選で当選したのであと5年は生き伸びるが、次世代の党がこんな感じになったのでもはや政治家としての発言権は無いも同然だろう。佐賀県知事だった古川康氏が自民で当選したのが例外的なことで、風頼みの元地方首長が国政で勝てるという流れは、今後も予想される低投票率の中では、もはや過去のものになったのかもしれない。

 そう考えると、橋下市長が今回市長を辞して国政に打って出たとしても、勝てなかった可能性さえある。勝てなかったらただの人になるだけ。海江田万里氏と同じ道を辿ったはずだ。そう考えると、まだ市長で代表というヘンな立場で維新を仕切ることの方がメリットも多かったのだろうな。とはいえ党内勢力で旧維新系が半分になってしまったのでは、国会議員でもない橋下氏が今後も強権で仕切っていくことが出来るとは思えないのだが。

変化のスピード

 まず断っておきたいのは、時代は常に若者のためにあるという僕自身の認識についてだ。3ヶ月ほど前に50歳になった立場としては、もう消え去るべきところにいるのかもしれないという危機感も持っている。危機感というのはちょっと違うかもな。そういう認識を持っていなければ、ついつい「まだまだ若いものには負けん」的な驕りが生まれる。それに対しては強く警戒しておくべきだと、僕の世代はもちろん、これからそういう年齢になっていく世代も、個々が警戒しておくべきだと思う。

 なぜ若者のために時代があるのか。それは社会というものが変化していくからである。1945年の終戦のように1日で世界が180度変わるようなことは希有な例で、ほとんどの変化は数年から数十年という単位で動いていく。現在50歳の人間にとって、20年で変わる変化についていくことが可能なのか、またついていく必要性はあるのかという問題があって、かなりの人の切実な現実を考えると、その必要性はない。というよりも、変化についていく能力がなく、だから如何にして現状を変えずに逃げ切るのかということを考えていくことになる。それが変化への抵抗勢力となっていく。50代60代は脳味噌の柔軟性も失われつつあるし、富や財などの点で蓄積してきたものも多い。だから、変化を嫌う。そこは動物として仕方のないことでもある。だが、僕らは人間だ。人間は考える葦である。動物とは違う尊厳を持って、自分の都合で変化を妨げることを留まらなければならないと思う。

 そして変化というのは、良いことか悪いことかという価値の問題ではなく、否応なく訪れるものなのである。否応なく訪れるのだとしたら、対応しなければ死ぬだけということになってしまう。その時に変化への遅れで死ぬのは若い世代だ。同様に老人世代も死ぬのだが、その理由は生物としての限界によって死ぬわけだ。で、生物というのは次世代に命をつないでいくことで種を残していこうとする。それさえ出来ないのであれば、人間は動物としても最下等なものということになってしまうだろう。

 数十年で変化をすることがあるとすれば、その数十年で対応をしていけばいい。津波のようにあと数十分で到達して沿岸一帯が流されるという話なのであれば、その数十分で対応するしかない。その間に防護壁を建設するなんて悠長なことは言っていられない。すべてを置いて逃げる以外に方法はない。だが、数十年で変化するということであれば、ゆっくりと高台に移転すればいいし、防護壁を作るのも良い。ただし、数十年後にはちゃんと対応出来る青写真を作って取り組まなければならない。

 だが、数十年という単位で動く場合、途中から若い世代もプロジェクトに関わってくるようになる。その時、自分が関わっていない昔に作られた設計図に「それはおかしい」という疑問を持つようになる。そうなるとどうすれば良いのだろうか。これは本当に難しい話だ。若者が自分たちの身来のために「絶対にこっちだ」という主張があり、古い世代の初期の計画に瑕疵があるのであれば、一からやり直す必要があるだろう。大きなコストと時間がまたかかることになるが、どうしても必要なのであればやるしかない。

 だが、初期の制度設計思想の背景にあることを知らずして、目先の感覚で「それはおかしい」と若い世代が言い出すことがある。それはそうだ。変化への対応を始めるころの「対応しよう」という切羽詰まった思いの背景事情を体感してはいないのだから。その切羽詰まった事情を知らずに、制度が切り替わろうとするその時点の背景だけを体感し、「それはおかしい」とだけ言い出すのはやはり思慮深い建設的意見にはなり得ない。それは自分が若い頃に感じていたことなどすっかり忘れて「今どきの若い者は」と口走るオッサンや、自分の逃げ切りのために懸命になって若い世代の苦境や未来を一顧だにしない老人と変わらない愚かさだ。

 僕は音楽レーベルをやっている関係上、若いバンドと話をする機会も多い。僕としてはレーベルの価値というのは蓄積されたノウハウの伝達にあると思う。製造して販売するだけなら誰にだって出来る。また、ある程度インディーズ規模で売れているバンドなら大手プロダクションに所属してそこのマンパワーに乗っかるということも出来る。問題はそこまで行ってないバンドが、そこまで自力で行くにはどうしたらいいのかということで、それを克服するためにはそこに特化したノウハウがあるところのアドバイスが重要になる。

 だが、多くのバンドはそこでつまづく。ノウハウのアドバイスを理解せず、自分たちだけで考えた戦略で突き進んでしまう。いや、玉砕覚悟というのならそれは別にいいのだ。だが、成功するために、ステップアップするために何かをやろうとするのなら、落とし穴にハマらないで済むような道を歩む必要がある。それは要するに、目的地に行くための地図を手に入れるというようなもの。地図があればスーッと行けるのに、地図がないために最初の駅までで迷う。迷っているうちに歳をとってTHE ENDだ。しかし、多くのバンドが地図も持たずに感覚で「こっちだ!」と叫んで走っていってしまう。迷っているだけならいいけれど、落とし穴に落ちたり、地雷を踏んだりする。先人が「そこには地雷が埋まってるから気をつけてね」というのを聞かずに。

 何故こんなことを書いているのかというと、昨日Twitterで若い(と思われるけれども、正確なことはわからない)人から問いかけを受けた。今の選挙制度には問題があると。選挙制度とは、要するに小選挙区制のことだ。自民公明に2/3も投票していないのにこの数字はなんだという、そういう憤りから生まれる疑問であり問いかけなのだと思う。

 僕はこの制度を導入してきた経緯を考えると、それ以前の中選挙区制よりも遥かにいい制度だと思っている。ただ、小選挙区比例代表並立制というのがガンである。これが無ければ弱小政党など生き残ることができず、だから自然と2大政党制になっていくのだが、現実にはこの比例代表のおかげで弱小政党が今も乱立することになってしまっている。

 それ以前の中選挙区制の下では、ひとつの選挙区から4人とか当選することになるので、死に票は少ないとよく言われる。だが、4人当選する中に自民が3人、社会党が1人とか、自民が2人、公明が1人、共産党が1人というような感じになって、結局自民が過半数を超えるのが常態になり、政権交代の可能性が極めて難しいという政治状況だった。そういう中、自民党では誰が総理大臣になるのかが大臣ポストに極めて重要ということで、派閥活動に力を入れることになる。新人議員は右も左もわからない国会でどう活動をしていいのかを先輩にアドバイスされて育っていく。それが派閥だ。しかも選挙などの活動にかかる費用はまるごと派閥持ちになるので、派閥の領袖というのは資金力があるかどうかが重要になって来る。必然的に金権政治に陥り易いという状態だった。

 政治とカネという言葉が喧伝されたのもそういう背景。今のヨシミが金を8億円というようなものとは明らかに違う構図。だが国民には政権交替という可能性が見えないため、幾ら金権腐敗をしても自民党に代わる政党を選ぶことが基本的に出来ない。それを変えるのが、小沢一郎が主導して実現した小選挙区制の導入である。だが、彼がそれを実現する上では、当時の8党派による連立政権だったため、各政党が生き残れなくするような制度では法案が成立しない。だから比例代表制を組み込むことによって成立を図ったというのが経緯だった。

 それ以降18年。政権交替は何度も起こった。だが比例代表があるために弱小政党もいまだに残っている。そしてそれが今の自民大勝を演出する大道具になってしまっている。

 自民というのは基本的に経済利権政党なので、多少のイデオロギーの違いなら飲み込んで結束できる。しかしリベラルといわれる現在の野党は多少のイデオロギーの違いを存在意義にしてしまう傾向があって、だから分裂していく運命にある。そこに自己保身第一の共産党が加わって選挙区が乱立する。さらに自民別働隊という性格の政党が2つ3つ生まれるとさらに混乱していく。選挙区での選択肢が「自民対非自民」という構図になったとき、そこに5人立候補すれば比較1位の政党候補が30%程度の得票率で当選していく。弱小政党は比例頼みなので野党が乱立すればドント方式によってどんどん一種の死に票が生まれ、枠が減っていく。

 野党も候補を調整して統一すればけっして自民が選挙区で当選するような状況ではない。それは地方の首長選を見ていれば明らかだ。だが残念なことにそれは今回実現していない。野党系に集まった票を合計すれば楽勝で自民に勝っている選挙区はたくさんあった。2年前に較べればマシになったけれども、まだまだ調整不足で負けているのだ、野党は。

 つまり、30%程度の得票で2/3の議席を取ったというのは、それ自体が悪いことではなく、ルールなのだからそのルールを活かせない野党の側が甘いのだ。さらに言えば投票率が低くなるということは組織的に動いている固定票の割合が増えるということであり、だから52%の投票率では利権に絡んでいる組織集団が強い政党が勝つことになる。それが自民公明の圧勝であり、共産党の躍進なのだ。民主党も前回よりは増やしている。だが投票率が上がっていればもっと上積み出来ていただろう。それは要するに候補者調整、さらには政党の合流が必須になってくる。それを阻むのは青臭い理想主義であり、自己中心的な驕りであろう。そういうものを持っている間は、リアルな戦いに勝てるわけがない。多少選挙制度が変わったとしても、それは同じことだ。

 有権者の側にも問題は多い。なにより低投票率だ。民意が反映されないという意見にも一理あるが、だとしたら42%の人たちの民意とは何だ? 非自民にもっと勝って欲しいという民意は、選挙制度によって阻まれているのではない。中選挙区では選挙制度が非自民政権を阻む大きなハードルになっていた。だが、小選挙区のドラスティックに動く特性から考えても、まともに戦略的に動きさえすれば自民を破ることも難しいことではない。自滅したのだと考えるのが正しいだろう。

 そういう感じで、僕は民意を政治に反映させるためには小選挙区オンリーにしていくべきだと考えている。18年前の状況ではそう簡単に小選挙区オンリーには出来ない事情があった。それが18年経って改善していくのか。それとも現状に不満を持った人たちが「やっぱ中選挙区か?」という声を上げて振り出しに戻るのか。社会は変化するものの、必ず進歩するのではなく、後退することも当然ある。だから中選挙区制に戻るというのならそれもひとつの変化だろう。だが、20年単位でまた戻るのだとしたら、なんだかなあという思いしか浮かんでこないし、それはバンドマンが考えに考えた結果、歴史的にも論理的にも無駄でしかない戦略でバンド活動をしていこうということに至ってしまうのと同じことだなと思う。

 勿体無い。実に勿体無い。そうして希望とは真逆の状況に自らを追い込んでいってしまう。今回の選挙で安倍政権を選んでしまい、社会が経済的にも治安的にも底なし沼に引き返していってしまったように。

声無きものの宴

 2014年12月14日は、キラキラレコードにとって24周年記念日であった。いやあ、めでたいめでたい。

 だが同時に、第47回衆議院議員総選挙でもあって、ここで自民公明が解散前よりも増えるという結果になり、まあ本当に困ったことだなという日でもあった。

 何が困ったかというと、その投票率だ。52%前後だったという。66%で2/3。前回が59.32%ということで1/3以上が棄権しているという史上最低だったわけだが、それを遥かに下回る結果。もはや1/2が棄権しているといってもいいのではないだろうか。この傾向は全国の地方選挙ではすでに当たり前の感じになってきていたものの、まさかの衆院選での52%。

 自民が勝つとか、民主が勝つとか、まあそれは時の情勢や風も左右してのことだし、自分がどこを応援してて、そうなったから民主主義の勝利だとか、応援しているところが大敗したから民主主義の敗北だとかいうのは、ちょっと当たらないと思っている。今回は自民公明の圧勝ということで、まあそれにはいろいろな要素が絡んでて、必ずしも自民公明を2/3強の人が支持しているということではない。だが、選挙というルールがあり、そこで野党が乱立したまま選挙に突入してしまったら大敗するのは自明のことである。別にルールが事前に隠されているわけではないので、前回の大敗直後からなぜ調整して準備してこなかったのかという、野党側に非があることは間違いない。僕が支持している小沢一郎やその政党も含め、反省と次への対策を切望するところだが、まあそれはさておき、投票率の著しい低下は、これは与党野党ともに共通した、民主主義の消失の危機として肝に銘じて欲しいと思う。独裁して市民権など剥奪してしまおうという勢力は別だが。

 かく言う僕は、この選挙の期間、Twitterで「とにかく投票に行こう」と呼びかけてきた。特に若い人に投票に行って欲しいという思いをぶつけてきた。まあ無名のオッサンの呼びかけに何の意味があるのかという気はしないではないが、一応15万人以上の方にフォローしていただいているから多少は影響力もあるかも的なところもあるし、第一影響力があるから言うとか意味があるとかいうことではなくて、どんな無名の人であっても、主張することに何の憚りがあろうか。

 そんな中、投票の前日に僕は一連のツイートをした。

「息子を乗せて自転車で移動する際、絶対に信号無視はしないし、止まるたびに「赤信号は渡っちゃダメ」と言い聞かせてる。でもその横をスーッと無視して渡って行く人の多いこと。半分くらいの人や自転車は短い信号を無視して行く。あれが投票に行く人と行かない人の違いとリンクしているように思う。」

「自分1人が渡っても事故にならない。だから無視して行っちゃう。自分1人が投票してもしなくても結果は変わらない。だからサボっちゃう。」

「そういう小さなルール無視や、権利の不行使によって、社会は劣化していく。劣化した社会で苦境に立つのは、ある意味自業自得なのだ。」

「未来ある者ほど、その社会が劣化することの影響を長期間受けることになる。そして劣化を防いだ結果の影響も長期間受けることになる。」

「じゃあどの人にどの党に入れれば劣化するのか、しないのか。その問いが間違っている。多くの人が投票することが、劣化を防ぐのだ。一部の人しか投票しないことで生まれる社会が不公正で歪んだものになることは自明だろう。」

「そしてなにより、投票をサボって平然としてる意識そのものが、その人の精神の劣化である。精神の劣化した人が多くいる社会が劣化しないはずがなかろう。信号無視ばかりの交差点に安心など訪れないのと同じで。」

「「大丈夫だよ、車はちゃんと止まるし」などという理由で信号無視する人も多いらしいが、自分が無視してるのに他人は無視しないと思える感覚は、やはり劣化したとしか言いようがない。」

 そうなのだ。どの党が人の暮らしを良くし、どの党が劣悪にするという話ではない。劣化した精神の怠惰によって歪められた社会が、暮らしを劣悪にするのだと思う。国民が懸命に考えて選択した結果が次の4年間だとしたら、その方向性が間違いだったと気づくことも出来るし、気づけば、方向の修正も出来る。しかし、選択の過程に劣化があれば、次の4年間に間違いがあったとしても気づくことは出来ないのだろうし、万一気づいたとしても、4年後に修正することも叶わないだろう。そうして劣化した社会は劣化を極めていくのである。

 国民のレベル以上の政治家などは生まれないというのは、そういうことだ。で、今回の選挙は本当に半分くらいしか意志を表明しないということになってしまった。支持政党無しというのはもうずっと国民の中で一番大きな勢力で、5割近くが支持政党を持たずにきた。だが、そんな支持政党無しの人たちも選挙には行ったのである。行ってなんらかの判断を下してきたのである。だが、今回はもう本当に支持政党無しの人が選挙に行ってない。支持政党無しは、決断もしないということになったのだろう。

 TwitterなどSNSが盛んになってきた当初、アカウントを作るということはイコールつぶやく、投稿するということだった。それによって他者と関わる、そういうツールだった。だが、最初はつぶやいていた人もどんどんその場からは去って行った。しかし完全に消えたのではなく、発言しなくなった。先日もある人が「こう言ったら誰かを傷つけるんじゃないかとか、仕事関係の人から悪く思われちゃうんじゃないかと考えると、もうつぶやけないですよね」と言っていた。おそらくそういうことなのだろう。顔の見えない誰かを気にして、何も言わなくなる。学校のホームルームでも発言する子供は限られる。会社の会議でも発言する人は限られる。黙っていても誰かが発言して議事は進行するんだものと。自分はその席に参加して、誰かの物言いを聞いて、決まったことに従っていけばいい。それは政治に限定したことではなく日常のほとんどのシーンで見られる光景だ。

 だがそれはとても危険なことだと思う。この国は発言しない人が誰かの決めることに依存して生きている。無批判に人生を委任して生きている。そうやって作られる国の決定に、発言しようとする人も巻き込まれていく。喧々諤々して決まった選択なのであれば、認めて従うこともやむを得ないだろう。だが、大多数の見えない誰かの顔無しの顔色を窺い、声を持たない人たちの無知無抵抗によって流れが出来ていくのだとしたら、それを社会の意志として認めて従うということに道理はあるのだろうか。だがそれに抗おうとしても無慈悲に押し寄せる津波のようなパワーとなってしまったら、逃げる以外に方法は無くなるし、逃げることさえ能わずという事態も起こりうるのだろう。

 僕はこうもツイートしていた。

「311以降ずっと感じているのは、この国は怠惰な愚鈍にジワジワと殺されて行くということだ。強権を持った誰かではなく、顔の見えない怠惰な愚鈍の群れに、沼に引きずりこまれてしまうという恐怖。」

「集団イジメに抵抗せずに付き従って誰かを攻撃してしまうような。自分1人が声を上げても変わらないよの群れが、結局1人を殺し、集団の誇りも失ってしまうような。」

 声のない人たちは自分たちが声を失ったことによって現出する世界で、どんな宴を催すのだろうか。声無き社会で経済はこの2年ですでに失われてしまった。次に失われてしまうのは一体何なのだろうか?

タカタとアベノミクス

 タカタのエアバッグ問題をみていると、なぜアベノミクスが空理空論なのかがよくわかる。

 アベノミクスというのは、デフレから脱却するためにまずは大企業を儲けさせ、儲けたところから給与を上げて、可処分所得を増やして景気を良くするという考え方であり政策。株価を上げて円安誘導をして、輸出系の大企業は潤った。だが、そこから下にお金が流れない。流れないと個人消費は増えやしない。さらには食糧自給率が100%でない日本が、エネルギー自給率が100%でない日本が、生きていくにはそういったものを輸入しなければならないわけで、円安だから調達費用が高くなる。輸入コストが上がれば国内での価格に転嫁される。それを法人個人が等しく使用する。生存のための必要なものが高くなるから文化や贅沢品がどんどん売れなくなる。それが今の状況。

 大企業も社会の中に在る存在で、消費者が疲弊しては大企業自身も成り立たない。それは判っているはずだ。だが、じゃあ自分たちが潰れても社会貢献をするのかというとそういうわけにもいかない。株主に対する責任もある。だから社会のために率先して給与を上げていくなどということにはならないし、下請けへの支払いを余分にしてあげるなんてこともない。

 で、タカタの話。

 タカタのエアバッグが設計不良なのか製造不良なのか、アメリカ南部の高温多湿地域では事故の時に火薬がドーンと必要以上の爆発を起こし、エアバッグが膨らむのと同時に金属部品も破裂して顔面に飛んでくる事例が報告された。その結果リコールすべしと問題が提起され、アメリカの公聴会にタカタ幹部が呼ばれる。その席で「あなたはリコールに協力しますか」という質問に対し、副社長という立場のタカタ幹部が即答出来なかった。

 全米規模のリコールとなると費用は莫大になる。企業経営に大打撃を与えることになる。それを役員会も経ずに副社長が一存で答えよというのは可哀想ではある。だが、幹部が製品利用者の危険回避のために全力を就くすと言わないという映像はショッキングなイメージとともに広がっていく。

 要するにユーザーの命に関わる問題であっても、会社の費用を使うことに躊躇するのが企業というものの本質である。そういう大企業に「儲けさせるから、社員を潤せよ」と言われても、そう簡単に内部留保を取り崩したりはしないだろう。それは「大企業に裏切られたよ」というような問題ではなく、大企業というものはそういうものだと理解した上で政策を作り実行しなければならないのだと思う。だが、安倍総理はアベノミクスという自分の目玉政策を大企業の善意に基づいて進めている。そこが間違いなのだし、信頼するに足りないのである。

 まあ昨今自民党への経団連企業からの献金は増えているという。もしかしたら「儲けさせてやるから、我が党へもその儲けの分け前をよこせよ」というのがアベノミクスのゴールだったのかもしれんと、そんな風にも思えてくる。

虎の威

 戦争反対や反原発を訴えてきた名優が亡くなった。それを受けて多くの人が「◯◯さんがこう言っていた」とツイートしてる。

 こういうの、好きではない。

 死者にはもう反論の機会が与えられない。同時に反論をすることを阻む空気を生む。だから、言論の場では自らの意見を補強するツールとして利用するのは慎むべきだと思うのだ。

 それは311の直後から忌野清志郎の歌がことあるごとに使われてきたことへの嫌悪感から自覚するようになった。忌野清志郎はRCとしてのアルバム「COVERS」などで反原発の姿勢を打ち出していた。当時の感覚としてはかなり先鋭的なもので、多くの人は「そこまでか?」と思っていた。確かに当時「危険な話」という本が出版され話題になり、大学の同級生などが「原発に行ってダイインのアピールに参加する」などと言ってて、ちょっとしたムーブメントが起こっていたのは事実だが、当時の僕は「?」だったし、変わってるね程度の認識しかなかった。僕にとっての清志郎はRCの清志郎であり、夏は日比谷野音、クリスマスには武道館で騒ぐのだというものだった。

 それは今もそう(RCへの認識という意味で)。だから原発事故以降清志郎の発言や曲をとりあげて「だから原発反対は正しいんだ」と言っている人を見かけると、眉をひそめた。違うだろう、それは清志郎の一部だろう、代表曲は「雨上がりの夜空に」だし「多摩蘭坂」だし「ドカドカうるさいR&Rバンド」だろうと。RCが好きな人間にとっては、COVERSだけに焦点が当たって代表作となってしまうのがとてもイヤだった。時間の経過とともに全部が忘れられてしまうのならば仕方が無い。尾崎紀世彦といえば「また逢う日まで」、ちあきなおみといえば「喝采」というように1曲だけで記憶されるのであれば、不本意ながらも「雨上がりの夜空に」で記憶されて欲しい。「サマータイム・ブルース」や「ラヴ・ミ・テンダー」であってほしくはない。そもそも他人の作曲だし。

 人は時代背景によって意見が変わる。もちろん成長する過程で意見を変えることもある。小泉純一郎や小沢一郎に対して「政権にあった時には原発を推進していたじゃないか」という攻撃をしているのをよく見るが、人は意見を変えるのである。311の後に原発に対する考えを変えるのは当然のこと。津波に遭った東北沿岸部の人たちが恐怖で海の近くには住みたくないと言った場合、その人たちに対して「10年前は海辺の暮らしが最高だって言ってたじゃないか」と攻撃する人がいたらどうだろうか。それはやはり的外れな攻撃にすぎない。

 僕自身つい最近そのようなことがあった。このところ「選挙に行って白票を投じよう」というキャンペーンをしている団体があるようなのだが、それに対して僕は「そんなことを言うのはアホだし、むしろ政権党に有利な結果に導こうという悪意ある話だ」と批判している。で、どこかの人が2011年あたりの僕のツイートを発掘してくれたのだが、そこで僕は「白票でもいいからとにかく投票所に行こう」という内容のことをツイートしていた。その2つを比較して「こんな感じで意見を変えるバカ」と揶揄されていた。まあバカなのは事実なので仕方がないとしても、人は成長するものだ。その時の真意としては家にいて投票所に行かないよりはマシ」という程度の意識だったわけで、じゃあ今「白票投じるくらいなら投票所にも行くな」と考えているのかというとそうでもないわけで、だから要するに段階論としての「棄権<行って白票<有効投票」という意味では変わらないのだけれど、他人に対して「白票を投じよう、それが議員の意識を変えるよ」などという完全なミスリード団体とは明確に違うと、それを理解出来ただけでも成長というべきだろう。

 だが、仮に僕がそれなりの有名人で影響力もあり、そして1年程前に死んでいたとして、2011年のツイートを引っ張り出して「ほら、あの大島さんもこう言っているよ、白票を投じに投票所に行こうよ」とその白票キャンペーン団体に使われたとしたらどうだろうか。それは完全に不本意である。だけれども反論の仕様が無い。死んでるんだもの。だから反論をすることができず、僕のかつての未熟で言葉足らずのツイートがミスリードにつながってしまう。それは大変困った話だ。

 ここで確認しておきたいのだが、僕は原発推進ではない。即時脱原発を目指すべきであると思う。しかし、その世論形成のために故人の何かを利用すべきではないと思うのだ。

 目的のために手段を選ばないということは、自分が押し進める考えに利用する時にはなぜか見過ごされるが、自分とは反対の考えで利用される時のことを考えてみればよくわかる。例えばそれは、戦時中に軍部は戦争を押し進めるために天皇陛下のことを利用した。「天皇陛下のご意志であるぞ」と。そうなると内容の是非などは関係なくなって、一般市民は反対など出来なくなってしまう。市民だけではなくリベラルな政治家も反対出来なくなる。まあ当時の天皇陛下は死んでないけれども、現人神という扱いだった。つまり、行きながら祭り上げられていた存在である。現代においては死者を祭り上げて神格化し、反論することを阻む空気を醸成するために利用される。そういうことにはどちらの立場のどんな考えに対しても慎重になるべきだし、見かければ否定する立場を明確にすべきである。

 つまり、生きている仲間として一緒に行動するのは構わないけれども、死んだらその人はもう故人であり、仲間では無くなる。「あの人がこう言っていた」という人に僕は問いたいのだ。「で、君の考えはなんなんだ。あの人がではなく、君の考えはなんなんだ。死んだ誰かに操られているのではないのだろう。自分の意思で行動をしているんだろう。だったら、君の考えは何なんだ」と。

 有名な人が行動に参加してくれれば、影響力という点でとても大きな力になる。だが、それも生きている間だけにしようよと。その人が死んでしまったら、残った人がそれぞれの意志と、自分で考えた理屈と、自分の声で叫んでいくしか方法はない。そういう行動がひとつひとつは小さいながらも集まって大きな力になっていくしか無いのである。大きな力を持った仲間が死んだとしたら、その穴を埋めるべく個々が少しずつ自らの力を大きくしようと努力する。その努力が無ければ行動などは大きくなっていかない。それはきっと故人が望むことではないだろう。遺志を継ぐというのなら、亡霊の言葉にいつまでもぶら下がるのではなく、自分の意思と言葉で語り、自分の足で歩いて行く強さを獲得していくしかないのである。