月別アーカイブ: 2015年11月

友達論

 友達ってなんだろう。そのことについて何度かここで書いてみては、うまくまとまらずに下書きのまま留め置かれている。何度も書くが、すべて下書き。公開できるような結論など見当たらない。

 昨夜、夢を見た。引越しをすることになっていて、荷物をまとめているんだけれどもまったく収拾がつかない。そのくせ荷物は自分の車で運ぼうとしていて、どうすればいいのか判らずに、途方に暮れている。友人が2人手伝いにきてくれていて、頑張れよと励ますでもなく、かといって黙々と荷作りをしているでもなく。途方に暮れている僕のそばで、一緒に途方に暮れている。さて、どうしようかと。

 彼らとはもう何年も話をしていない。どうしているんだろうか。SNS全盛の昨今、昔もそんなに話してなかったぞというようなかつての知人と容易に再会し、一応フレンドという関係になったりしている。が、一緒に途方に暮れてくれるような友人とは案外つながらないものだ。

 距離感というのはひとりひとり違っていて、友達だからこういう関係であらねばならぬという決まりはない。facebookでイイねを押してくれるのが友人なのか。むしろイイねを押さずにいるのが友人なのか。多分、どちらでもないのだろう。イイねを押したからといって友人と定義すべきでもなければ、イイねを押さなかったからといって友人と定義してはいけないということでもない。先日、僕のやっているレーベルの25周年を記念したCDセット商品を出して、Twitterでもfacebookでも告知して、イイねを押してくれる人、リツイートしてくれる人は多数いるものの、じゃあ買ってくれるのかというとなかなかどうして。ではこのイイねの人たちのイイねの意味ってなんだろうねと考えたりする。もちろん、買ったから友達で、買わなかったから友達ではないという決め方はおかしい。そんなことは有り得ない。でも、イイねなのに買いはしないよというのは、何なんだろうかと。だったらむしろイイねを押さずにスルーしてくれればいいじゃないかとひねくれ頭は考えたりもする。いやホントにひねくれててすみませんが。

 例えば結婚をするカップルがいて、式に呼ぶ人、披露宴に呼ぶ人、二次会的なパーティーに呼ぶ人、それぞれ人選は違うだろう。その人選はそのカップルとの親しい度合いによる。だが、呼ばれる側にも親しい度合いというものはあって、「ええ、オレを呼ぶのかよ〜、ご祝儀払いたくないな」ということだってあるだろうし、逆に、「ええ、自分を呼んでくれないの〜。大親友だって思ってたのになあ、切ないな」ということもあるだろう。そういう場合に、友達度合いというものは表面化してくるのかもしれない。ややこしいなまったく。

 表面的なつながりを維持してくれるSNSによって、僕は生活の場を東京から京都に移しても、なんとか人並みの生き方をしていられるのではないかとは思う。ややこしいし、うっとうしい面ももちろんあるけれども。facebookでは相互に認定してなければフレンド関係にならず、しかも昔の同級生だったり、共通の友人が何人かいれば「お友達じゃないですか?」と余計なお世話をしてくるから、つながらないわけにはいかないけれども、Twitterはそんなことないし、片方だけでフォローするということだって可能。さらにはどちらもフォローしてないけれどもリストで読むという間柄を築くことだって可能。僕にはそういう間柄の人が何人かいます。いや、相手がホントにフォローせずにリストに入れてくれているのかはわからないけれど。多分そうだと睨んでいる。うん、多分。そういうのも、友達なんじゃないのかなあという気がする。

 ちょっと前に、あ、この人アレか?と思って、facebookでフレンド申請したら、やっぱりそうで、申請承認の後で、自分も気付いてたけれどずいぶん昔なので忘れてるんじゃないかと思ってそのままにしていたというメッセージが返ってきた。覚えとるわい的な返事を出したけれど、この距離感というのも、なんかいいなと思う。ふるさとは遠くにありて思うもの、ではないが、距離が少しあって、でも完全には忘れきれないというような、そんな関係性。facebookでも「お前、誰だっけ?」と思うようなかつての同級生からはちゃっちゃっと申請がくるけれども、今こいつに申請出すのって、どうなんだっけと思うくらいに関係があった相手からはなかなか申請が来ない。もちろん僕からも申請はしない。いや、完全に忘れられているだけなのかもしれないけれども。僕だけが覚えているだけなのかもしれないけれども。

 そんなわけで、僕の夢に出てきた友人は、今頃何をしているんだろうなあと、ちょっと思います。あ、1人はもう鬼籍に入ってしまっているので、土の下で眠っているだけです。Twitterでもfacebookでも相互にフォローしているのですが、彼はもうそこにはいません。千の風になってぇ〜、時々思い出すかのように僕の周りでもさまよってくれればいいかなと思ったりします。

 相変わらず、僕の友達論はまとまりもなければまとめもなくて、何の結論も出ちゃいないんだけれども、まあいいや。ブログってそんなものでしょう。

(追記)
 今日の友達については基本的に既に会ったことある人について書いてたのだけど、そのあとにイイねしてくれた人はいずれも会ったことない人で、なんか申し訳ないのでちょっと触れてみる。

 SNSにはもちろん会ったことない人がたくさんつながっていて、そういうのを僕は「私立Twitter学園(私立facebook学園)での同級生」という位置付けにしている。同級生だから、同じクラスの人もいれば他のクラスの人もいるだろうし、放課後に一緒に遊ぶ人もいれば、同じクラスなのに喋ったこともない人もいるだろう。でも、お互いに気にしていたりするのはわかってて、なんかそういうの、嬉しいと思います。ちょっと以前に1ヶ月ほど私立facebook学園を欠席していたことがあって、久しぶりに投稿したら世界中の人が「元気にしてた」と言ってくれたりして、そういうのも嬉しかった。世界中っていっても20人くらいだけれどもな。

 バンドマンに「お前らのライブに来てくれるの、最初は昔の同級生だろ?だったらファンを増やすってどういうことよ。今からまた学校に行くか?行けないだろ。だったらTwitterなんかで友達増やしたらどうだ?」と言うことがあって、それはもちろん万能の方法論ではないけれど、SNSから友人が増えるのだったら、それはそれでいいんだろうと思っている。それは「バーチャルで良くない」という人もいるけれど、昔たまたまクラスが一緒だっただけで特に会話もしたことがない同級生と同窓会で肩組んで校歌を歌うよりも、会ったことのない人と本音で話ができた方が、よっぽど友達だと思う。いやもちろんTwitterでフォローしあったくらいで本音の会話ができるとは思わんし、それはクラスが一緒になっただけの40人と全員友達になれるかというとそんなことはないというのと同じで。でも、そういう中から1人や2人くらい、生涯の友達になる可能性もある、ということで、やはり、そんなのはバーチャルだからと毛嫌いするのも違うなあと思う訳です。実際にそこからリアルに会って、今もときどきお茶したりする間柄になった人もいるわけで。そうなると、ああ、私立Twitter学園の校歌を歌っても良いかなあという気にもなるわけで。ええ、歌いませんけど…。

 Twitterで以前からフォローして、この人のつぶやき良いなあと思ってた人がなかなかフォローしてくれなくて。でもそんなのはどうでもよくて、ただその人のツイートを追っていた。でもなんかのきっかけでその人がフォローしてくれて、ああ、嬉しかったなあという勢いでDM送ったら喜んでくれて。今では私立facebook学園でもご学友に。そういうのも、SNSならではのことだと思う。で、つい最近もある人のツイートを楽しみにしてて、2年越し3年越しくらいの一方的ウォッチャーだったのが、その人もなぜかフォローしてくれるようになり。だからといって今回はDMなんて送ってないのだけれども、時々、僕のまったくくだらないツイートをリツイートしてくれたりして、恐縮するやらなんやらで。なのでDMでも送ってみようかなあという気持ちも半分湧いてきてはいるものの、でもまあもうちょっとこの距離感でいいのかなあと半分思ったりもしています。

 いろんな関係があって、それぞれが面白くて、で、バーチャルな学園なので、突然転校していって跡形もなくなってしまうということも過去に何度も経験していて。まあそれがバーチャル学園のそこはかとない面白さでもあるのだろうと思います。一期一会的な。今のこの何かを大切にしようかというような。

 そんな感じなので、これからもみなさんどうかよろしく。

45ĺš´

 昨晩の報道ステーションで三島由紀夫の特集をやった。45年前。僕は6歳。奥さんはまだ生まれてもいない。その時のことを立てこもりの部屋に突入した人の証言を交え特集は進んだ。知らなかったことも聞いた。特集の最後に古館氏がひとことふたこと。そして解説委員のコメンテーターもひとことふたこと。

 僕は、テレビ朝日の報道ステーションがこの企画を特集したというのが、どうも危険だなと感じた。それは、右も左もそれぞれの正義を抱えている。正義への執着は善意なのだが、正義というものの定義が個々人で違っており、違う正義に向かう執着は、平時に於いてはそれぞれの古来の主張に沿って行われるが、ある瞬間に正義というものの定義は突然降ってくる時代によって変わっていく。変えられることもあり、それに気付かずに自ら変えたと思い込んで、その「正義」のために邁進していく。三島由紀夫の行動は一種のヒロイズムであり、美学の結果でもある。それを「美」と見るのか見ないのかも人によって分かれるところ。だが、熱量の大きさについては立場の違いを超えて認めざるを得ないものがあり、その熱量が、時として理屈もルールも正義も凌駕していく。

 45年前に学生運動で安保反対を唱えていた学生たちは戦後生まれが大半で、いわゆる平和教育を受け、憲法をねじ曲げる政府に憤っていた。一方の三島は45年前に享年45歳ということは、戦後70年の今年に生きていれば90歳ということになる。昭和20年に終戦を迎えた時が20歳。彼の精神は軍国主義教育の中で育ってきたとみて大きく違わない。その三島の主張は、やはりねじ曲げる政府への怒りであった。そのねじ曲げが、軍を持たないという憲法を温存することになると怒っていた。だから、自衛隊の隊員諸君に対し、君たちは憲法違反のままにされてしまうぞと弁を振るった。三島は憲法をちゃんと変えろと言い、学生運動は憲法を守れと言った。その方向性は真逆なのに、国が憲法をねじ曲げてごまかしているという認識では一致し、政府を批判した。

 報道ステーションの特集の最後の映像では、三島による「憲法をねじ曲げるとはなにごとか」という想いを根拠とした流れに、先の国会での強行採決の映像を重ねていた。そのエンディングを受けての古館氏とコメンテーターの言葉。

 いや、それおかしくないか? 憲法をねじ曲げたということへの怒りが同じでも、三島の主張と、あの強行採決を阻止しようとしていた野党議員の行動の理由は、真逆である。そして、強行採決をしようとした与党の立場は、三島にとっても唾棄すべき相手なのであり、だから三島の想いは強行採決のどの行動とも重なることはない。なのにそれを重ねる。おかしくないか?

 報道ステーションがどこまで理解して意図してあの特集のビデオを編集したのかはわからないが、こういうズレが、誤解を生んでいく。それは例えばパリでのテロ事件の後にアイコンをフランス国旗に重ねた人がたくさんいて、もちろん犠牲者に対する悼む気持ちは誰もが持っていいのだけれど、じゃあその憤りの勢いでオランド大統領が空爆を激化させるという流れにも気持ちを添わせるということなのかという問題にもなる。いやいやそんなつもりはないよ、犠牲者に哀悼の意を示すのは当然だろうという人から、IS許すまじ、攻撃すべしという人から、シリアの普通の人たちがたくさん死んでるんだよその人たちのことは悼まないのかという人までたくさん出てきてややこしかった。僕の立場としては、国旗を重ねることはどちらかへの心理的加担になるし、それがフランスを後押しするとかすべきではないとかいうこととは別の次元で、熱狂の中ですぐに動くのは危険ですというような意味合いで、やっぱりアイコンを変えるのには躊躇しちゃうよなあという、そんな感じだった。

 昨日はロシア空軍機がトルコ領内を侵犯したとかで撃墜され、シリア周辺でのパワーバランスが垣間見えたのだが、各政府の要人たちも「今回のことに論評を加えること自体が適切でない」といってかなりビビっていた。さすがにプーチンは感情をあらわにするかのように今後への懸念を表明していたが、もちろんそれも感情的にどうこうということではなく、今後の局面についてのしたたかな布石を打ったにすぎない。感情で国際政治の決定をするようで大国のリーダーは務まらないし、それはどういうことかというと、感情で自分の意見や行動を決めてすぐに動くようでは、個人としても生き難いことになるということなのではないかと、まあそういうことなのだろう。

 

還る場所

 友人が実家の不動産屋を継いだという。

 比較的華やかな職に在った人が東京でもオシャレな場所に暮らしていて、まあ、これがその人の生き方であり生きる場所なんだなと普通に遠くから思っていたが、ここにきてその選択。これまでン10年を過ごしてきた人生の根底を捨て去り、地元に帰る。いや、それは還ると表現するような何かだろう。

 その話を聞いて頭に浮かんだのは、京都の老舗を継いだある女性の話。NYで芸術に関する仕事をしていたその人が、実家の老舗名店を継ぐことになり京都に戻る。京都の人なら誰でも知っているであろうその老舗の名店だから、継ぐというのはある意味セレブリティなことであって、赤の他人から見ると羨ましいくらいのポジションなのだが、じゃあその人自身はどう思っていたのだろうか。それは、先週まではそんなことに想いが至ることさえなく、いいな、実家が老舗名店という人はくらいにしか考えていなかった。

 NYでの活動がどのくらい成功していたのかはわからないし、充実していたかどうかは成功の度合いとは必ずしも一致しなくて、プライベートな人間関係の具合なども含めて、その暮らしを楽しめていたのか、苦しんでいたのかは他人にはわからないことだ。しかしNYで頑張ると決意して海を渡った人が、実家に戻ってくるというのは、やはりそう簡単な決断ではなかっただろう。と、今は思う。

 僕の実家はそんなに老舗名店でもないが、僕が生まれた年に親父が創業し、もう半世紀を超えている。今も続いているのは兄が継いでいるからであって、おかげで僕は糸の切れた凧のような暮らしをさせてもらっているが、もしも兄がいなくて、別に継がなくてもいいぞと言われていた(実際にそう言っていた)中で、自分だったらどうしただろうなと考えてみる。兄は、それを考えたのだろうな。不動産屋を継いだ友人も考えたのだろうな。決意してみればそれはもうその人の人生であり、肯定する以外に無い真実そのものなのだが、決意するその直前まで、それまでの自分の人生とその中で紡いだ哲学、さらには継がなかった場合に想定される未来の在り様などが同列に立ちはだかり、決意をさせないように阻んでいたに違いない。

 そう考える時、その実家が老舗名店であるかどうかは、考慮する一要素にはなるだろうが、人生の可能性の他の何かをすべて捨て去ることを第三者が考える程度に容易にするほどの重みがあるとは思えなくなる。京都にはそんな名店を継いでいる人たちがたくさんいて、その決意の重みを考えると、ああ、この街は特別なんだなあとあらためて実感されてくる。そういう店に、また足を運んでみようと思ったりもする。

 そんなわけで、友人頑張れ。ついでに兄も、ますます頑張ってください。

 ついでって…。失礼な弟だオレは、まったく。

言論の自由・考

 何度も何度も何度も書いているからもういいよって言われるかもしれないけれど、書いてみます。言論の自由というのは、その人が何を言っているのかに関わらず保証されるべき権利のこと。民主主義社会でないのならそんな権利はゴミクズでしょうが、民主主義社会であれば、これは極めて大切な権利。

 ネット社会では口汚い罵りやデマや誹謗中傷が盛んで、こういうのに困っている人が沢山います。街を歩けば時たまヘイトスピーチデモみたいな「なんじゃこりゃ」なものに出くわし(僕は幸いにも出くわしていませんが)てしまう。そういうのに心を痛めている人も多い。

 そういう暴言に対して「そんなことを言う言論の自由などない」ということがよく言われます。でも、僕はその説には賛同しません。そんなことであっても、どんなことであっても、それを言う権利は民主主義社会では保証されるべきだと思います。

 こういうと「お前もヘイトスピーチ野郎か!」とお叱りを受けそうだけど、それは短絡なことで、問題をよく切り分けずにゴッチャにしている反論&罵倒というべきでしょう。

 論点を整理します。僕が重要だと思っていることは2つ。「本当に正しい真実などは存在しない」ということ。もうひとつは「仮にある特定の発言を言論の自由の外に置くとした場合に、誰がその発言を『権利ない言動』と規定するのか」ということ。

 「本当に正しい真実などは存在しない」というのは、今さら説明するまでもないことですが、意見の対立が起こる場合、対立する両サイドとも「自分たちが正しい」と思っているわけです。相手の言ってることは全部悪意によるデマだし、許し難い価値感ということになるでしょう。いやもちろん極論ですけど。だから一方はもう一方の言っていることを規制したい、やめさせたい。でもそのもう一方の側からすると、やめさせられて堪るものかということになります。もちろん逆の側もそうでしょう。自分がそれを言うのをやめないぞということでしょう。

 「仮にある特定の発言を言論の自由の外に置くとした場合に、誰がその発言を『権利ない言動』と規定するのか」ということを考えてみてください。仮に法で規制するとした場合、通常は国家が規制することになります。例えば殺人。いけませんね。殺人を放置しておくと安心して暮らすことが出来ません。だから、殺人をした人は捕まって裁判にかけられてというプロセスを経ます。そして死刑が言い渡される。死刑の是非という問題ももちろんあるけれどもとりあえずここでは置いといて進めますが、殺したのが1人だったら死刑にはならずに無期懲役で2人殺せば死刑とか、いやまあこれはアバウトに言ってるので実際にはもっと細かな検証があるのでしょうけど、まあ大体そんな感じです。それだって殺された遺族にとっては納得しかねる判断で、うちの家族を殺したんだからそいつも殺さんかいと、感情的に受け入れられない場合も多々あるでしょうけれども、いろいろなケースを積み重ねて、大体ルールというものは決まっています。
 で、日本での殺人に対する法的対応が絶対の真理に基づく何かなのかというとそうでもなくて、国によっていろいろな制度があります。つまり、ある行為に対して法がどういう対処をするのかということは、「その国家の考え方次第でどうにでもなる」ということに他なりません。

 そういうことを前提に考えた場合、さて、どんなヘイトスピーチを言論の自由の外に置くべきでしょうか。今の日本の政権はどのような言葉を言論の自由の外に置くと思われるでしょうか。ええ、嫌中嫌韓のヘイトスピーチではなく、政権批判の罵りを、まず言論の自由の外に置くべきものとするでしょうし、法律を制定したら、規定の文言は曖昧であっても、現場は結構恣意的に取り締まっていくでしょう。

 それはOKなのか? そうではないでしょう。

 だから、言論の自由の外に置くべき言葉なんてことがあるなどということは、考えてもいけないのだろうと、思うのです。基本的人権の中にある言論の自由は、どんな発言であろうとその内容で誰かからその発言をすることを、法律のようなもので侵されてはならないのです。

 では、「お前はヘイトスピーチを是認するのか」という問いについてどう考えるべきなのか。僕の答えは「是認してはいけない」というもの。

 こう言うと「なんだよ、じゃあ結局そういうことを言うことを認めないのか、だったらやっぱりそういう言葉には言論の自由は無いということじゃないか」と言われそうですが、そうではありません。大事なことは、その発言を認めないのは、「権利だから権利じゃないから」ということではなく、「自分自身がその言葉をモラル(モラルの理由でなくとも構いません)として認めない」ということ。ヘイトスピーチなどを認めないのは、誰かが規定したルール(法律)に違反しているからではなく、自分自身がちゃんと考えて「これはダメだろう」ということを判断するから、であるべきだろうと思うわけです。ヘイトスピーチが認められないのは、自分がそれを善しとしないからで、だから僕の人生において、そういう言動を繰り返す人とは交わらないということを貫く。それしかないのだと思います。そしてそういう考えと行動の人がその社会の圧倒的多数になれば、ヘイトスピーチをする人も考えざるを得なくなるはず。ヘイトスピーチの人が後を絶たないのは、もしかすると「ヘイトスピーチ許すまじ」と考えている人が、周囲の人とそういうことを議論することを怠っているからなのではないでしょうか。腫れ物には触らずと黙って逃げていると、その腫れ物はいつまでもなくならないのだと思います。

 まあ、現実にはヘイトイラストの人が俗悪なイラストを描いて、それを本にしたら結構売れたりする、つまり買う人がいるからなかなか無くならないし、難しいことではありますが。難しいからといって絶望して何もせずに押し黙っていると、自分が望まない社会というものが、気付けば周囲に満ち満ちているということになってしまうだけですし、その努力をするのが大変だからといって、言論の自由への制限する権限をお上に委ねようとしたら、それこそお上の思うつぼなのではないかと。そう思っているわけです。

選択

有機肥料のはずだったものがそれは真っ赤な嘘で、化学肥料だったことが発覚し大騒動。有機にこだわり有機栽培の野菜を買おうとする人がいて、そのために自分の畑を有機にして商売をしている農家がいて、そういうのを全部まとめて騙していたわけだから、こりゃとんでもないことだ。

ここで議論になりやすいこととして、有機に意味があるのかという問題がある。有機でなくともいいぜという人たちがいて、その人たちにとってはどうでもいいことだったりする。例えば、AKBのCDが3種類のジャケットで出て、通販でジャケットAを買ったのに届いたのはジャケットBだったということに似ている。AKBに関心のない人にとっては、中の曲は同じなんだろ、じゃあどうでもいいじゃん、と思うのだが、ファンにそれは通じない。別ジャケットはまったく別モノなのである。意味は、あるのだ。

いや、意味があるのか無いのかではなくて、意味があると思ってる人と思ってない人が何についてもいるわけで、だから意味があるのか無いのか論に持ち込もうとする人というのは、問題の本質をずらすことで何らかの利益を得ようとする人か、さもなければただのバカかなので、相手にする必要はありません。

僕個人としては、有機であることにそれほどこだわりはない。化学肥料でも受け入れる立場。農薬は避けられるものなら避けるべきと思う。遺伝子組み換えはそこまで避けようとは思わず、放射性物質は可能な限り避ける、これは農薬以上に避ける。あとはなんだっけ?まあ言い出せばこだわりポイントにキリはなく、その上で、美味しいものを安く食べられれば、と思う。

僕の個人的な指針と100%一致する人ばかりではない訳で、それは僕の無知か、僕以外の人の無知か、あるいは両方の無知か、人類が知りうる知見の限界かに依るもので、だから誰を責めるつもりもないし、責められる謂れもない。

人はそれぞれが自分の勝手な判断と知識不足な能力ながらも、コレだと信じる基準によって懸命に生きている。そして日々正しいモノを選ぼうとしている。そういうのが、尊い。偽装というのはそういう懸命な選択の根拠を根底から無意味にさせることなので、ダメなのだ。

例えば、マンション杭打ちの件。巨大なマンションが長年の間に傾いたと。渡り廊下がずれているのに住民が気付き発覚したそうな。ではこれ、生活への影響はどうなのかといえば、たいしたことは無かろうと思う。原発事故の後によく言われたのは「放射能で死んだ人はいないよ。それよりも無茶な移住で生活環境を変えたことによるストレスで死ぬ人は多いのだ」ということだった。その説をマンション杭打ちの件で言い出す人が出てくるだろうと思っているのだが、残念ながらまだ現れていないようだ。マンションで発生したわずかな傾斜で、多分人は死なない。だが健康への影響がゼロなはずはなく、ちょっとした不調は必ず起きる。しかし貧乏ゆすりをするとか、脚を組む癖があるとか、そういうことの方が影響は大きいはずで、だから傾きの程度問題ではあるものの、マンション杭打ちの件で死ぬ人は出ないと思われる。多少の地震で倒壊することも考えにくいし、正しく建てられていても、コンクリートや鉄骨の劣化などもあるし、地震規模が大き過ぎればどっちにせよ倒れる。

だから、マンション杭打ちのデータ偽装くらいで怒るなよと言う人がいたら、それは違うよと明確に言っておくべきだろう。世の中にはいろんな人がいて、僕はマンション杭打ちのデータ偽装で倒壊はないと思っているが、倒壊するかもしれないと考える人だっているわけで、どちらが正しいということではなく、どちらもそう思っているということなのだ。化学肥料でも大丈夫という人と有機でなきゃだめという人が同時に存在する。放射性物質は絶対ダメという人と多少は大丈夫という人が同時に存在する。どちらが正しいではなく、どちらも存在するというだけで、その判断は個々人の持ち得る知識が総動員された結果なのであり、サジェスチョンはできても、否定は誰もできない。だから結局は個々人がそれぞれの判断に基づき日々の選択をしていくしかない訳だが、偽装はその判断をすべて無駄にしてしまう。だから、杭打ちデータ偽装はダメだし、肥料成分偽装はダメだし、産地偽装はダメなのである。

秋田の肥料会社は、有機で作ると臭いが出て、工場周辺の住民から苦情が来ると説明していた。そうだろうなと、僕も思う。だからそれをクリアするのは大変で、有機肥料は高くなり、有機農業も高コストになり、有機野菜は高くなるのだ。それを言い訳にして偽装が良いということにはならない。絶対にならない。有機肥料を作るのが困難ならば、化学肥料を作る会社として堂々と商売すれば良いだけのこと。

マンションの件では、いろいろな立場の会社が会見をおこなっているが、ほぼすべては言い訳と責任逃れのように感じる。発注側が、工期やコストについて圧力などかけていないと連日言っている。だが、これこそ最大の偽装なのではと感じている。この期に及んでそういう綺麗事を言ってるようでは、偽装はこれからも起こるだろうし、その綺麗事を受け入れるようでは、この国の国民はチョロいものだと思われて、またコロコロと偽装で騙され続けるのだろう。

どうしてそうなっているのか

 朝のニュースで気になる話をやっていた。ひとつは、「中国人の消費、若者が支える」。もうひとつは「中国人観光客増加〜バス会社の危機」。いや、見たのを思い出しながら書いているので、出されていた見出しとまったく同じかどうかは自信がありません。

 まず気になるのは、バス会社の件。観光バスを何台か所有しているバス会社が、観光旅行にバスをチャーターされたら仕事を受けてバスを出すけれど、1日1回あたり70000円のお金しかもらえず、ドライバーの人件費とガソリン代を引いたら利益なんてほとんど残らない。それでもバスを遊ばせておいてもダメなのでその値段で受けるしかない。法廷で定められた範囲だけでやっていては仕事が取れないので範囲外にも運転することになる。それで、監査に引っ掛かって一定期間の運行停止を命じられたと。その後に中国人観光ツアーの仕組みが説明されて、中国の旅行会社と日本国内でのバス会社などの仲介をする仲介コーディネイター(これもニュースではもっと別の言葉で紹介されていた。覚えることできず)に話を聞き「少しでも安く仕事を受けてくれるバス会社を探すのが仕事。高いバスをチャーターしてたのでは自分が赤字になる」と言っていた。

 この流れから、中国人の日本観光をセッティングする人が悪いような印象のニュースになっていくし、バス会社が苦労しているのは中国人観光客のせいという印象が生みだされていた。でも、そうなのか? 本当に中国人が悪いのか?

 そうじゃないだろう。日本は素晴らしいという観点でものを考えたいのであれば、なぜ日本人がバス会社も利益を出せるような適正な価格でバスをチャーターして旅行をしないのか、ということを考えた方がいい。利益の出る適正な価格の依頼があれば、バス会社もそちらを選ぶ。だが現状としてそのバス会社にもっとも高い金額を提示しているのが中国人観光客ツアーを扱っているコーディネイターだというのが、現実だろう。じゃあ日本人はバスツアーをしないのかというと、そんなことはない。激安を謳い文句にしたツアーはたくさんある。数千円でかに食べ放題バスツアーとかたくさんある。その金額だとかにの代金も出ないんじゃないのかと心配するようなもの。そういうのに慣らされると、人はもう安いツアーにしか興味がなくなっていく。その結果、ニュースで取り上げられたバス会社に最も高い金額を提示するのが中国人観光客ツアーのコーディネイターということになっているのだろう。なぜ日本の旅行企画会社は、それを超える金額でのチャーターを提示しないのか。そこを無視して、外国を批判する材料にするのはなにかおかしい。

 国交省だったか、バス会社の抜打ち監査をする係の人が「監査をする人数が足らない」と言っていた。いや、安全を確保するためには何をすべきなのか。厳しい規制をする、それはいいだろう。だが経済的に困窮すればバス会社も追い込まれる。むしろ、常識で考えた範囲でのバスチャーター最低価格というものを設定する方がいいのではないか。そうすることで、多少のゆとりをもったバス運行をしていけるようになる。そこは自由経済と統制経済の間で難しい問題で、あまりに過剰にやるととり過ぎになっていく。その結果、空の安全を担保するために設定していたはずの飛行機の料金が高くなり過ぎ、LCCの料金でも十分に運行できたはずなのに倍以上の金額のチケットしかないという状況にもなるわけで、どちらがいいのかは難しいところだが、どうも「監査をする人数を増やすべき」ということで役人の焼け太りにしか向かっていないようで歯がゆい。

 「中国人の消費、若者が支える」というニュースは、ああ、日本もバブル時代に通った道だなという気がしないでもない。だからいつかはその消費も冷える時が来るだろうとは思うものの、中国の政策が個人消費を重視した方向で動いているというのは羨ましい限りである。そりゃあ日本の若者だって金額を気にせずに欲しい物を買い、食べたいものを食べたいのだ。だがそれができない。金が回っていないからだ。学生はもちろん、社会人になったところで非正規ではバイトの延長でしかなく、自由に使えるお金はほとんど無い。もちろんそれが政策だけの話ではなくて諸々の社会の在り様とか個人の努力とかそりゃああるけれども、若い人に金を使わないし、非正規をどんどん増やす企業を優遇していくような仕組みを見ていると、まあしばらくは若者は金使えないだろうしその結果国内消費は冷え込むばかりだなというのは、僕みたいな文学部野郎にだってあからさまに判る。

 昨日も会社の近くの薬屋さんに立ち寄ったら、中国語を話すグループがいろいろな薬を買っていた。日本での買い物のルールがわかってないからカゴも持たずに手にいくつもの商品を握りしめている。レジで並んでいて、列が長くなったから店員さんがレジをもう1つ開けて、「お次の方どうぞ」と声をかけるも、中国人のお客さんは言葉がわからずにそちらに行かない。相変わらず並んでいる列に立ちつつ、グループの仲間のリーダー格の人と話をしている。店員さんもちょっと困った表情で「じゃあ、お次の方」といって僕をそのレジに呼ぶ。僕も仕方なくそちらに移って買い物を済ませる。こういうのを批判する人もいるが、じゃあ僕らが初めて海外旅行をした時にどうだったのかということを思い出したら、何故批判などできようかという気分になるよ。ましてや日本語での呼びかけだ。例えばロシアに旅行をしてロシア語で呼びかけられて対応できるか?中国に行って中国語で呼びかけられて対応できるか?僕はできません。それで現地の人に批判されても困るし、だから僕はそういうことで批判する方がマナーがなってないと、思う。
 そしてなにより、今の日本の経済の一端を、外国人観光客の爆買いが支えているということを忘れてはならない。買ってもらってて、批判するなんて言うのがいいマナーなはずはない。そんなの、例えばコンビニに行って何かを買って、外に出た瞬間に「今の客、ダサイよね」とか言うのと同じで、なにがおもてなしだ、という話になる。そんなのが美しい国であるわけがない。

 一般の商店も、日本人の国内消費だけで十分に潤うのならいいのだろうけれどもそうは行かない。バス会社と同じだ。海外の人にもっと日本国内でお金を落としてもらう必要があるし、その人たちが提示する適正金額が日本人一般が考える適正金額よりも低いというのであれば、日本人一般が考える適正金額でモノやサービスを買っていけばいいだけの話で、それをしないのに批判するというのは、やはりどこか性根が腐っているということだろうし、そういう方向に世論を誘導しつつある報道には、強い疑念を抱かざるを得ない。

寄り掛かることの大義

同性婚をパートナーシップなんとかということで証明書を渋谷区と世田谷区が発行し始めたと。そのニュースに対して反発なのであろう、あるツイートで「国が支援するのは子供を産む可能性がある場合であって」というのを見た。その論が正しいのなら、高齢での結婚は支援されるべきではないことになる。まあこの場合の支援というのは金くれるとかではなく制度として認めるということだろうが、高齢での結婚は制度として認められないということでなければ理屈は通らない。もっと厳密に言うと、高齢の女性が結婚するのは制度として認めないということでなければ理屈は通らない。論理的に何才からが出産不能なのかというのは素人には難しい判断だが、65歳以上の女性による結婚は制度として認められないということになるだろう。

しかし高齢者同士の結婚は世の中にザラにある。老人ホームに入ってる、配偶者を亡くした同士が結婚することも少なくない。独身老人向けの婚活パーティーも盛んだ。彼らは子供を作ることを目的にはしていない。当たり前だ。結婚が人生に活力を与えることは多い。いや、結婚を人生の墓場だと言う人もいるけどさ。

国家が子供を作る可能性のあるカップルに対してのみ制度として支援するというロジックは、結婚によって生き甲斐を得ることを否定する。さらには、子供を作ることの持つ様々な意義を否定する。そういう考えを、僕は支持しない。

制度とは、単なる社会の決まりごとであって、絶対の真理ではない。車は左を走るものだというのは、日本では当然の前提だが、真理ではない。車が右側を通行している国はいくらでもある。夫婦別姓についても、それを認めている国もあるのだろう。細かなリサーチはしていないけども。海外にはミドルネームがあることが多く、そこに色々な意味を込めているらしい。だが日本人の僕にはその理屈がよくわからない。いや説明されればわかるのだけど、体感としてスッと受け入れられない。海外のサイトで登録などする際にその欄があって、当然空欄なのだが、空欄を残すのには違和感がある。それは、僕の中の文化によるものなのだろう。

文化と制度というものは別で、そこを混同して考えてしまう人は多い。文化は染み付いているもので、情のもの。制度は理屈によるもので、情のものではない。郷に入っては郷に従えというのは理による対応のことを言っており、海外に暮らしてもなお醤油や味噌の食事を欲してしまうのは情による行為だ。

結婚はなんなんだろうか。思うに、形を取ることで安心する為の何物かなのではないだろうか。結婚式では神に誓う。教会でも仏式でも神前式でも。人前式というのもあるが、それでも参会した人たちの前で誓うのであり、そこになんの拘束力もない。心の中の話であればそれだけで良さそうなものだが、その後に婚姻届を人は出す。ラスベガスではドライブスルー結婚というものがあるが、あれだって神父さんの前でセレモニーをするだけじゃなくちゃんと書類に記入して役所に提出する。それは式とは別の、法的拘束力の下に結婚を置くことによって、幾つかの権利を得る何かなのだ。

財産的な共有の何かもあるが、当事者としては重婚は出来ませんよという保証を得るということも大きいだろう。不倫カップルで「今の妻とは別れるから、お前を1番愛してるから」と言う男を心から信じて愛することが出来るのなら、別に離婚しなくとも毎日自分のとこに来て生活してくれればそれでいいはずだが、不倫男は不倫するくらいだから言動を信頼することなど出来ず、本当に1番なら、態度で示せよとなる。それが、妻との離婚&自分との結婚ということなのだろう。ま、不倫するやつなど最初から信用しなけりゃいいのにと思うけど、好きだの惚れただのいうのは理屈ではないのだろうから仕方ない。

話を元に戻そう。結婚は男女のみと制度で決めていることのメリットがあるとすれば、男女で付き合うということを敢えて選択する必要がないということだ。性同一性障害という、まるで病気のような呼び方をするが、男同士や女同士で恋愛したいということは病気ではないだろう。単にマイノリティかどうかというだけ。じゃあ大量宣伝でハリウッド映画を好きだという人と、ハリウッド映画嫌いでフランス映画が好きだという人と、数的にはハリウッド映画派の方が多いだろうが、その場合にフランス映画好きを、マイノリティとは呼んでも「映画嗜好障害」とは呼ばない。当たり前のことだ。同性同士で愛し合うことで、子供を持つ可能性は少なくなるだろうが、女性同士のカップルが他人の精子の提供を受けて人工授精で出産することはあり得る。男女婚のカップルでは普通に行われている。話逸れそうなのでまた元に戻すが、結婚は男女のみとすることで、同性同士で付き合うことを「常識」として排除することができる。夫婦別姓についても、制度でどちらかに決めることにして、「常識」で普通は男の姓だろとすることで、考えることをやめることが出来る。考えずに済むことのメリットは実は大きい。だが、それでも考えたいのだという人の存在と希望を無視して抑圧する権利が、思考停止を望む人にあるのだろうかというと、やはり疑問を持ってしまうのだ、僕は。

それは要するに、制度というものと文化というものをリンクさせておけば楽だから、楽な側にいる立場の人にとってはその制度に寄りかかりたいし、その制度を揺るがしかねない何かが起こった時に、ついつい反発をしてしまうのだろう。だがそれは単なる思考停止でしかないということを、常日頃から自問自答しておかなければならないのだろうと僕は思う。

例えばある宗教が台頭してこの国で多数派を形成したとする。当然政権を取るだろう。社会制度をその宗教に沿ったものに変えていくだろう。その時、その宗教に帰依しない人はたちまちマイノリティになるが、マイノリティの尊重する文化とは相容れない制度が制定された時、果たしてそれに反対することなくわだかまりもなく受け容れられるのだろうか。言うまでもなく大多数に都合のいい制度が制定された方が社会はうまく回る。だがその効率の陰で文化を否定されて生き難さを味わう人が生まれてくる。そういう人の文化を尊重し、居場所を作ろうとするのか。それとも、そういう人を排除したり、無視していくのか。そういうことが問われているのだろう。共存することと、排除することと、どちらが文明的に高度なのかは、いちいち論ずるまでもないとは思うけれども、どうだろうか。

一期一会

Twitterを始めてもうすぐ6年が経つ。実社会での6年といえばちょうど小学校に入って卒業するまでだ。

その間に知り合った人も多数。何度か交流して、実際にお会いした人も少なくない。今のリアル友人が学生時代や会社員時代でほぼ95%ということを考えると、もはや新たに学校に通うことも、どこかに働きに行くこともない身にとっては、新たな出会いを提供してくれるこのSNSというのはありがたい存在だ。もちろん功罪もあるだろう。ネットの闇はそれなりに深い。匿名性が強い分、人は攻撃性を隠さない。でも、よく考えるとリアルな場でも功罪はある。離脱不能な義務教育の中でもイジメは起きる。人が陰湿になるのは、なにも匿名性が担保されているからではない。

で、仲良くさせていただいた方が、時々いなくなる場合がある。リアルな場でやりとりをして連絡先を別に交換していれば、そちらで交流することも不可能ではないが、SNSだけの交流では、1度いなくなったらもうつながることは難しい。アカウントを残したままアクセスや書き込みをやめてしまう人、アカウントを削除してしまう人、様々だ。宣言して削除する人もいるが、ほとんどの場合、知らないうちにフェイドアウト。だから最近何やってるかなあと思った時にはもうとっくにいなくなってしまっている。

だから、つながってるうちに会っておこうよと言いたいが、SNSだからの距離感というのも確実にあるし、その距離感の心地良さを超えて会うのはバランスの崩壊の危険性を孕んでいたりする。その危険性を押して会ったところで、フェイドアウトしてしまえば、やはりそこで切れるのだ。

SNSでつながっている人は知っているかもしれないが、僕の会社の窓の外には屋根瓦が広がっている。そこに、ネコが現れる。ある時からネコちゃんと呼ぶようになり、以降それは猫ちゃんではなく、猫でもなく、ネコちゃんだ。京都に来てからすぐにやって来るようになったネコちゃんは、SNSでつながっている東京時代のリアル友人とのやりとりとは別のレベルで、僕の心の平安に貢献していたと思う。夏の暑い時期は屋根瓦が熱くなり、だからネコちゃんもやって来ない。どうしてるかな、熱いもんな、日陰で休んでな、そう思っていると、オフィスの冷房を使わなくなる辺りでフラリとまた顔を出す。その繰り返しを何度か。

でも、この秋にネコちゃんはまだ来ない。あと数週間で僕のオフィスは暖房を使い始めるだろう。それまでには来るかなという淡い期待と、いや、彼女はもう来ないだろうという漠たる諦めと。それはSNSでフェイドアウトした人たちに抱く想いに重なる。いや、違うな。ネコちゃんはもう生きていないんじゃないかという想像がある分、SNSのフェイドアウトとは違っている。もちろんSNSの人だって死んでいる人もいるだろうし。事実リアル友人の1人は事故で亡くなって、Facebookのアカウントはまるで墓参りをするかのように故人を偲ぶ場になっているが、Twitterのアカウントは放置されたままで、その彼しか知らない人は、彼がフェイドアウトしただけだと思っていても不思議はない。

人の出会いは本当に一期一会である。この関係は永遠だと思っていても、それは錯覚に過ぎない。人というか、ネコちゃんも含めて、別れは唐突に訪れる。そのことを理解して、交流をしていかなければと思う。今ここでやりとりしていられる喜びを常に感じつつ、ありがたいと思いつつ。

何処かの誰かがフェイドアウトするばかりでなく、自分の方がフェイドアウトする可能性も考慮に入れて。だってあれでしょ。自分がSNSからフェイドアウトするわけないと思ってる人だって、mixiからはフェイドアウトしてるでしょ、そうでしょ。