月別アーカイブ: 2014年11月

解散を受けて

 アベノミクスの失敗について海外ではもはや歴史上の結論とでもいわんばかりの書かれようで、もちろん海外の論調には海外の思惑も含まれていて、それは日経新聞が日本の経済について書くのにそれなりの思惑があるのと同じで、どれもこれもにわかに信じるわけにはいきませんが、でもやはりこの件については海外の論調が正しいと思うのです。

 それは福島での原発事故以来日本と海外の論調のあまりの乖離を目にして、ああ、いかに盲目的に生きてきたのかなと思わされるような衝撃があったのと同じことで。つまりは、あの地震で東京が麻痺した時に家族との連絡をさせてくれたのがdocomoの携帯ではなくTwitterだったということ、そして家族のもとに帰ることができたのはJRでも小田急線でもなく、自分の2本の足のおかげだったということと同じ。権威や看板はいかに脆く、そして個人を軽やかに捨て去るのかということを思い知らされ、今日の世界を見る大きな哲学として今も残っているのです。

 安倍総理はNHKのニュースの時間に合わせて会見を行い、解散を宣言しました。同時に消費税増税を延期するということ、延期はするけど1年半後にはどうあろうと増税すること、選挙で自公が過半数を取れなかったら退陣をすることを明言したわけです。過半数を取れなかった時に退陣しないで済む方法があったら教えて欲しいのですけれど、まあそういう茶化しはTwitterの方でやるとして、一旦ここではそっとしておきます。

 アベノミクスの失敗について、なんだ安倍の野郎、ヘマしやがってと言うのは簡単なことで、彼自身「他に対案が、具体的な対案があるなら出せと言っているのに野党からは全然出てこない」と頭に血を上らせて言っていたのですが、確かにそれはその通りで、現状の日本の財政を再建するというのは非常に困難な話で、おそらく誰がやっても見事な再建など出来ないでしょう。要するに借金を抱えてデフレになると借金の金額が借りたとき以上に重くなっていくので、インフレにすることで借り手の負担が楽になると、そういう高度成長期に起きたような夢よもう一度というのが本当に夢でしかないのですけれども、まあその夢にすがりたくて二度寝するような気持ちでやけのやんパチなのだから、何が黒田のバズーカだと揶揄したくなります。

 いかんいかん、また揶揄モードになりそうだった。戻します。

 要するに500万円の借金をして家を建てて35年ローンを組んでみたら、合計では1000万円を銀行に払うことになってしまうのだけれども35年後には500万円だった不動産の価値が5000万円になってしまってたから家をタダで貰えた上に4000万円のぼろ儲けだったと。今の親世代がやけに金持っているというのは主にそういう理由です。年金が今の若い世代に較べて手厚くて有利とか言っているけれど、基本的にはあの頃に家を買った人たちが裕福なだけであって、家を買っていない人たちは年金生活といってもけっして裕福ではありません。別で儲けた人は別ですけれども。

 そうして人より先に家を買って、高度成長期に株もやった人はそれなりに財産を残してる。バブル期に欲をかいて突っ込んじゃった人は大損して中には首くくった人もいますが、あの頃だって地上げの被害に遭っているとかなんとか言いながらも都心の土地を不当に高く売り抜けて、無言で地方に移り住んだ人もたくさんいました。それは高度成長期の全体的な豊かさとはまた違った、損した人と得した人のバランスの問題に過ぎません。

 黒田バズーカが成功しないのは、日銀がお金を刷って国債を買いまくっても、今は良くても結局は日本がいずれ利息を払わなきゃいけないという理由につきます。国と国民は違いますけど、国が払えなきゃ行政がストップし、結局国民が払うことになる。国民は、要するに今の幼児です。幼児が成長した時に「何でそんなに借金したの?」と言ってももはや手遅れで、払わなければ社会インフラが止まります。だから本当は肩代わりしなきゃいけない幼児が沢山いて、頭割りすりゃたいしたことないよねと言えればいいのだけれども、少子化はますます進んで、待機児童とかふざけた用語が当たり前に使われ、その上に保育園を作るとうるさいとか老人が駄々をこね、ベビーカーが乗ってくると迷惑だとかいうビジネスマンが現れる始末。ビジネスマンの年金はベビーが払ってくれるのですよ。馬鹿じゃないのかと思うけれども、この国は馬鹿が多いので仕方ありません。ゆとり教育のずっと前から、そんなに賢い国ではなかったのかもしれません。

 で、悲観的なことばかり予想されるのですけれど、じゃあそんなにお先真っ暗なのかというと、そんなことも無いような気がするのです。

 将来暮らしは苦しくなるばかりと言われるけれど、それは果たして本当なのだろうかと。子供の将来を考えた時に、一番気になるのは教育です。馬鹿ばっかりの世の中で上手く立ち振る舞うためには賢くなければならない。だから教育は必須なのだけれども、これがまたお金がかかる。親は子供の教育のために早くから教育ローンなど言うものを組む。組んだ結果親は節約節約、専業主婦を気取ってた人もパートに勤しむ。親が組めなければ子供が奨学金という名のサラ金ローンを組む。そうやって苦労して卒業してもまともな就職はほとんど無くて、毎月3万の奨学金サラ金ローンの返済を10年以上義務づけられる。

 でも、それは今だけの現象のような気がするわけです。ITの進化はさまざまなサービスを無料で提供し始めている。誰が何故無料で提供するのかはよくわからないものの、無料のサービスはとても多い。無料じゃなくともネット上のサービスは驚く程安くなってきている。20年以上前に僕が買ったパソコンは、5メガのメモリと80メガ(ギガじゃないですよ)のHDD、白黒モニタに中古のレーザープリンタにDTPソフトで150万円。スペック的には今のガラケー以下だけれども、そうまでして買う意味があった。でも今やパソコンとプリンタで10万を超えることはあまりない。アプリも無料のものがほとんど。

 教育にしても、サービスがどんどん安くなっていく。それが良いのか悪いのか、それで教育者に収益が残るのかという問題はもちろんあるけれども、現実的にはそうなっていかざるを得ない。僕の本業でもある音楽だって、そういう流れはやはりあって、どう抗うのかという問題はあるけれど、抗える方法など見つからない。ひとつの方法としては大人気の作品を生み出して提供するというものがあって、それは教育でもカリスマ教師的な人が誕生すればそのサービス提供は高価な有料になっていくのでしょう。けれどそれを必要とするのはごく一部の人であって、大多数の生徒にとっては、無料もしくは低価格の教育サービスで十分。卒業後返せるだけの仕事も得られない程度の教育のために20代をローンに縛られるような愚行は、する必要がないのです。

 それでも多くの人が教育ローン奨学金サラ金ローンに陥るのは、学校というブランドに頭を染め上げられ、そのブランドの頂点にある東大と、そこから下に連なるヒエラルキーの外に出ることが怖いと思い込んでいるからでしょう。事実海外から見た時に日本の上位校に何のブランド価値も無い。それなのにみんなそれに憧れ、無理して入ろうとする。それはある意味ディズニーランドで毎日見られるアトラクションへの行列の光景にも似て、2時間並んだ末の15分の娯楽をありがたく感じることが、一歩離れてみたときにどう映るのかとは無縁の、なにか時間が止まった夢の国での異質な出来事だとは、その場にいたら誰も感じられないような、そんなことが実生活でも普通に行われているわけです。

 でもそういうものは長くは続かない。TDLは30周年だとかなんとかで、まあそれは長いのか短いのかわかりませんが、宮沢政権が崩壊して自民が下野してからまだ21年しか経っていなくて、だったらもうちょっとこの政治的混乱は続くかなという気がしています。政治的混乱を他所に社会の意識は確実に変わっていくので、財政健全化が政治の混乱と無能によってますます悪化して、いよいよ破綻をしたとしても、人間が死ぬわけでもなく、死ぬ必要もなく、ただ日々の食い扶持をどうすればいいのかということだけ考えて飢え死にしなければ、なんとか生きてはいけるわけです。ギリシャの国民が全員生活が成り立たずに海に身投げをしたという話はいまだに聞きませんし。

 話を元に(元があるなら)戻しますが、安倍自民党が政治集団としてどう評価されるべきなのかというと、結局嘘をつく人たちだということです。信を問うなどと言っているけれども、前の選挙の公約で言っていたいろいろなことを簡単に反故にしてしまいました。TPPなどはその最たるものでしょう。反古にして批判されても、その公約を掲げていた人は退陣しません。民主党もマニフェストを全然実行できなかった。でも、「最低でも県外へ」「トラストミー」の鳩山氏は退陣しました。どうせ財政再建をする能力の無い政党の中から選ぶなら、約束をまず反古にして居直る人たちよりは、約束をして頑張ってみても出来ずじまいに終わってしまう人たちの方が、僕は好きだし、腹も立ちません。

 財政再建とは、無い金をどこかから持ってくるということに過ぎません。新しい価値を生み出すというのが理想です。新しい産業を興したり、石油を掘り当てたり。それが出来なければどこかから調達するしかありません。消費税も、結局は個人個人の財布に手を突っ込むようなものです。でも無いのなら仕方ないのです。お父さんが無能で借金をこさえてきた。小学校に入る前から貯めていた貯金を出せとある時に言われます。子供としては将来パソコンを買おうと大切に貯めてきた貯金を出せと言われるのは心外だけど、それしか手が無いのなら出すしかありません。でも、そういう時に嘘ばかりついてギャンブルで借金を作ってきた親に渡すのと、事業を頑張って来たのに不況の波で泣く泣く倒産させてしまった親に渡すのとでは意味が違うだろうと思うわけです。要領のいい兄がそんな親を見限って海外に移住して「オレは自分の金は出さんよ」と宣言して去って行った後、自分もそうしたくても未成年なので出来ないと、だからなけなしの貯金を親に渡す時に、じゃあどんな親なら納得もできるのかと、そういう選択なのではないかと、僕は思うのです。

 何の話でしたかね。まあ仕事中なのでこの辺で。

CDが売れなくなったということ

 椎名林檎が「CDはもうダメ」と発言したそうで、ネット上ではそこそこ盛上がっている。

 椎名林檎「CDはもうダメ」で波紋

 これは僕の持論ではあるが、この状況分析は当たっているところもあれば間違っているところもある。

 当たっているところは、若者ユーザーの開拓が出来ていないということ。2つの大きな理由があって、ひとつは、視聴環境が急速に崩れているということ。自宅にCDを聴く機械がない家庭は増えている。親もスマホで聴いてるからで、そうなると、まず親が家で流す音楽を聴くという機会を失う。音楽番組も減っているので、音楽に触れる機会がどんどん無くなる。

 音楽に触れないと、そもそも聴こうという気にならない。大きくなってスマホかパソコンを与えられるようになれば、そこからYouTubeで聴くようになる。が、その時にはもう無料でという感覚になってしまう。音楽にお金を払うという感覚が身に付くタイミングを失う。

 もう1つの理由は、使えるお金が減っているということ。個人所得はどんどん減っていて、当然子供の小遣いも減っている。そうなると何かを削っていくことになる。個人個人では優先順位のつけ方に差もあるだろうが、全体で見れば音楽に支出する金額が減っていくのは、シェアの問題ではなくパイの問題として避けようがない。経済が回復して娯楽に使えるお金が増えることを待つべきだが、そのための素人処方箋についてはまた別のところで、いつかそのうちに。

 で、間違っているところ。ここがこの記事の本題です。

 タクシー不況が言われ始めたのは小泉内閣での自由化の直後。かつて1地区でのタクシー台数には制限があって、それ以上は認められなかった。で、業績を上げたいタクシー会社はもっと台数を増やしたいけれど出来ない。で、自由化の波の中で台数制限が緩和されたら、各会社は台数増やすし、個人で参入する人も増えて、1地区のタクシー台数が増えた。でもタクシー利用者が爆発的に増えることがない以上、結局シェア争いになる。それまで500台で回っていたところに1000台が走るようになれば、単純計算で売上げは半分になる。経費は以前通りかかるので、収入は半分以下になってしまう。で、タクシー不況ということになるわけだけれども、じゃあタクシーを利用する人がみんないなくなって電車やバスを利用しているのかというとそんなこともなく、依然としてタクシーは使われていて、必要な場面では必要なのである。

 CDについても、かつてメジャーの人たちだけが売っていたのに、インディーズが参入してきた。それでもタワレコで売ってもらうのはなかなか難しかったんだけれど、amazonの登場で基本的にはどんなメジャーでも素人でも売られ方は同じになる。要するに大きなタクシー会社の社員にならなければタクシーを運転することができなかったのに素人が自家用車でタクシー営業できるようになったみたいなことで、それでも駅前ロータリーで客待ちは依然として組合のみだとしても、街で流して客を拾うのは誰でもOKになる。そうすると大きなタクシー会社の経営が立ちゆかなるのは自明。そうやってメジャーレコード会社はどんどんと勢いを失っていった。

 椎名林檎が感じているCDが売れないというのも、おおよそこういう事情によるものです。

 僕個人の感覚としては、無名のバンドマンのインディーズCDや自主でCD-Rで売っているような盤も含めると、そんなにめちゃくちゃ売れなくなっているということではないと思っている。確かに以前のようなCDシングルが100万枚というようなことはなくなった。でもこれは、当時みんなカラオケで新曲を誰よりも先に歌いたいという需要があって、レンタルでは2週間程遅いのでとりあえず発売日に買って、毎週金曜夜には友達と行くカラオケで歌って「その歌何?」「○○の新曲よ」とかなんとか。そんな文化自体がけっこう薄れてきたし(これはアーチストの裾野が広がってオリコンチャートの新曲というものがもはや機能しなくなったため)、歌を覚えるだけならYouTubeで十分だからシングルを買う層がごっそり買わなくなったというだけの理由。

 それ以前の音楽業界では、山口百恵だって30万枚くらい売れればすげえ的な話だったり、そこに戻っていき、なおかつ裾野が広がって有象無象のCD-Rが売られたりするから、シェアも奪われて各々の商売規模が縮小しているという、そういうお話。

 もう本当に配信とかのインフラサイトビジネスをしたい人や、そういうのに煽られて「そうかな」と思っている人たちが多いので、そういう話はどんどん広がって常識化しようとしているけれども、まだまだ実際のところはそんなに自体は進展していません。街からレコード屋が無くなっていっても、それはamazonなどにシェアを奪われて潰れているだけのこと。だと思います。全部そうでまったく問題ないとまでは思っていないけど。

笑顔

 その人たちの笑顔をみて、ああ、笑顔は感情のバリケードなんだなと実感した。

 何かに喜んだり嬉しくなったりする時に、人は笑う。でも中には笑うことに慣れていないのか、笑顔がぎこちない人はたくさんいる。だから同じ体験でも素直に笑う人と、笑わない人が出てくる。普通は笑う人が感情をストレートに表現していて、笑わない人が感情を押し殺していると評価される。

 だが、今日僕はそうではないと考えた。

 誰かの笑顔をみて、ああ、自分とは違うのなということを感じるのである。それは、やっかみなのか?もしかするとそうかもしれない。海外に行って映画館に入ると、当然日本語字幕などない。そこそこ英語解るぞと思ってても、なにかのジョークで観客バカウケしてるのに1人取り残されることがあって、それに似た感じ。

 他人の笑顔が、あ、自分はその笑顔の理由を持ってないなあと感じさせてくれる。で、勝手に、本当に勝手に線を引く。笑顔の理由を持っている人と持ってない人との境界線。屈折した線だよなあ。笑顔の人からすればたまったもんじゃなくて、だから、そんな線などひいてないで、こっちにおいでよということなのだろうが、残念ながら、笑顔の理由を持ってないばかりか、線を越えて行かない理由を持っているのだ。行くわけにもいかないのだ。

 そんな訳で、それまで線などなかった仮想空間に線が引かれる。それはもう引いてる側の勝手な理由なのだけれど、そういう線は毎日無数に引かれていて、魂が朽ちるまで永遠に消えないのだろう。

 その線を越えるかどうかは個人のつながりの密度にある。で、一般論で越えて来いという個人は背景にある線のことなど理解どころか見えてもいないので、そんな呼びかけに応じることはない。一方線のことを解る個人は越えて来いと言うことを憚って慎むので、結局呼びかけてはこない。なのでその線を越えて行くことはないのだろう。勿論家族のような密度の個人は、線の存在を知った上で問いかけをすることもあるが、そういうものはレアケース。なのでやはり線を越えて行くことは限りなく稀なのだ。

 ま、笑顔の集合写真の半分以上が「誰?」だったりするので、やはり線を越えて行く理由など見当たらないのだけれども。

語尾

 最近僕は語尾に悩んでいる。このブログもそうだし、Twitterなどもそう。どういう語尾で書くのがよろしいのかと。

 原則論としては、ですます調で書くか、である調で書くか、まあその辺のことで統一して書けばいいはず。そんなことはもうわかっている。伊達に文学部文芸専修などを卒業していないのである。これがブレてひとつの文中に「ですます」と「である」が混在すると、普通はその文章を書いている人そのものの知性を疑われ、文章というより文そのもの、主張そのものの説得力が地に堕ちる。

 その原則を理解した上で、あえてひとつの文章の中に両方の語尾を混在させることにも意味はあるのではないかと、まあそう思って悩んでいるのだ。

 「ですます」と「である」には、単に統一された何かというだけではなく、温度や距離感の違いというものもあって、それで文中で「この部分では相手の目を直接見て、覗き込むようにして訴えるべきポイント」というのが出てきたら、それ以外で「である」と言っててもそこでは「ですます」に変化させるということが、意味あるのではないかと、そう思ったりしている。

 文章の決まりって、よく言われる原則的なことがいくつかあって、そういうものにとらわれずに書くということで、あたらしい表現というものは出てくるのかもしれないとは思っているし、まあそんな風な新芸術的な大仰なものでなくとも、自分の話や文章に血を通わせたいとは思っているので、そのためには、いろいろと試してみるのも悪くないのではないかという気分が、最近は強くなってきているのだ。

 まあ、このブログもたいして読まれているわけではないし、だから何やってもいいじゃないか。

日曜日

 息子を寝かせつける時に母親と息子が寝室に行って、そのまま寝る時もあるけどそれはレアなケースで、早起きをしてかつ1日の行動量がハンパない時に限られる。そうでない時は寝室から「お父さんは?」というハイトーンボイスが聞こえてきて、「探してくる」という声が早いかふすまが小さな人の強い力と意思で開けられ、お父さんは左手を取られて寝室へと連れ去られることになる。今日は土曜日で保育園もないから朝は8時まで寝ることを許され、なのにお父さんは東京からわざわざやってきていただくバンドとのミーティングのために出勤。お外に連れ出してもらえない息子はお父さん帰宅時にはお昼寝の真っ最中。斯くして外遊びの無い寝坊息子が寝室から呼びに来ることは最初からわかっていたので僕も最初から一緒に寝ることにした夜9時半。

 目が覚めて仕方なくiPhoneでTwitterなど目にすると、フィギュアの羽生くんが練習で転倒、脳震盪なのにフリーの演技に云々と、それに対して「脳震盪直後に検査もせずに演技やらせるのは良くない」というのが並んでいた。で、これを見て思ったのはプロ野球のこと。頭へのデッドボールは本当に危険だからと危険球の制度があって、日本のプロ野球はフィギュアのような野蛮なことにはなってないよなあと野球好きなりの安堵をしたものの、よく考えるとあの危険球のルールは、頭へのデッドボールを投げたピッチャーを退場させるものであって、頭部に危険球を受けたバッターはコーチたちから「大丈夫か?」などと声をかけられた後に「大丈夫です」などと言ってか言わずか、とにかく立ち上がって一塁に走っていくことがほとんど。スタンドからも大喝采で「たいしたことなさそう」「良かった良かった」なのであるが、脳震盪の精密検査はやっていないので、結局は羽生くんを滑らせたフィギュア界とあまり変わらないようです。

 一方危険球を投じたピッチャーは強制的に退場になるので、危険球のルールは投げた選手への懲罰という意味合いが強く、危険球を受けた選手の健康配慮はどうでもいいらしい。懲罰を与えるぞと脅しておけば危険球など投げないだろう、ガルベスのような選手はいなくなるだろうとでも思ったのだろうが、いまだに危険球がゼロにはならない。あれは頭に当てようと思って当ててるのではなく、指が滑ってそっち方面に行ってしまったということに過ぎないだけ。まあ、死刑制度を残しておけば凶悪犯罪は減るだろうという主張に反して犯罪は凶悪性を増してるのと似ているし、犯罪者の権利や処遇には躍起になるのに被害者の人権は軽〜く扱ってしまってる司法の状況を考えれば、それも仕方のない日本的なルールなのかもしれない。で、それはやはり羽生くんを検査なしに滑らせたフィギュア界や、羽生くん転倒の相手選手を激しくバッシングしている人多数という状況も、やはり日本的な感じだなあと、思わずにいられません。

 個人的には、そもそも氷の上でクルクル回ることが既に危険だと思うし、自分でもやらなければ息子にもやらせたいとは思わない。でもやってる人は多いし、羽生くんにとってはあれこそが人生なので、あらゆる分岐点でやるかやらないかの選択を迫られてきて、その都度「やる」を選んできた19年間だったのだろうと、思う。それはまるで「そこに山があるから登る」という登山家の行動理由と似ているのだろう。雪山に消えてしまった植村直己は、雪山に向かったことで人生を失ったけれども、じゃあ雪山を避けていたらどうだったかを考えると、やはりそこに植村直己の人生は存在しなかったのだろう。だから羽生くんも選手として棄権という選択はなかったのだろうし、だからこそ、脳震盪イコール棄権というルールを作らないと無理なのだろう。じゃあどこからが脳震盪なのかはまた難しい判断になってくるはずだが。

 先日デモを試聴してやりとりをしていたミュージシャンと今日もメール交換。その人の存在や曲のインパクトはあるので、CD出そうよという話をしていたところ、「レコーディングなどにかかる費用が今すぐ出せないし、曲がすぐには無いので、これからボチボチ録音始めて、「これだ!」という状況になってからリリースの話を進めてもいいですか?」と言ってきた。なので僕は「そんなのはダメだよ。予算や曲数の問題があるなら今すぐに年内にだせなどとは言わないけど、いつまでに出す、半年先か1年先でいいから、計画を立ててそこまでに問題をクリアにして進めていくべき。それは単にレーベルとのリリースの話に限ったことではなくて、アーチストとファンという視点で考えてもそう。向こう1年でどういう活動をして自分をレベルアップさせる予定だから応援してくれと表明しないと応援のしようがない。毎月ブッキングライブを淡々と続けているだけで何の展望もないアーチストのことは応援したくても出来ないでしょ。」的な返事を書いた。

 すると「そうやって自分を追い込むのはストレスだし、自分には無理。今回の話は断念します」というあっさりとした返事が返ってきて終了。あっけなかった。

 その人の音楽のインパクトは評価している。だからやればいいのにと本当に思う。この場合のやるとは、ちゃんと計画して自分を奮い立たせ、追い込んでいくということで、ダラダラとミュージシャンもどきの活動を続けることではない。羽生くんの脳震盪は大変だし、フィギュア界がそこは棄権させる術を持つべきだとは思うが、ギリギリの選択で常にリスキーでも進むことを選んだ結果がスーパーアスリートであるという側面は認めた方が良い。ミュージシャンも同じで、成功しているひとは皆血の滲むような苦労と選択を重ねている。人類を超えるスーパー才能は別だが、そんなのはまずいないわけで、人類レベルの超才能が、常にギリギリの選択をしてきた結果が他人よりも優れた選手を作ってきた。タイムラインでは、羽生くんの脳震盪を押して滑ったことに感動と言っている人たち氏ね的なのも多数あったけど、そこに感動するのは当たり前のこと。問題がずれていて、競技団体が選手の安全を最大限に考慮した配慮をどう実現するのかということと、リスキーなチャレンジを選手が試みるということとを分けて考えないと、無用な対立を生むだけ。

 まあ、件のミュージシャンの場合、僕が求めたことは別に危険というべきレベルの話ではなく、至極当たり前のことをやろうよと言っているだけなので、それが出来ないようでは、植村直己的な成功の1/1000000さえ出来ないのだろうなあと残念に思うしかない。才能というのは、その分野に応じた音楽的やスポーツ的な特殊技能の他に、メンタル的な何かが両輪となって成立するもので、どちらが欠けても成功など覚束ないのだと思います。

 羽生くんの件はフィギュア界が危険なことをどうリスクヘッジするかを考えて取り組むべき話で、転倒などの際にどう対処するのかを予め決めておく必要があるのだろう。まあ、会長がセクハラまがいのことを公然とやって、批判されても両者の合意であると強弁し、選手も会長を庇い、なお会長職を辞さないでいて誰も文句を言わないのだから、一般常識に基づいたルールを決めることを期待してもダメなのだろうけども。

 まあそんなこんなです。明けてもう日曜日。昨日外出させてあげられなかった息子を神社にでも連れて行ってあげたいのだけれど、予報は雨。どうしたものかなあ。

友人

 「空気と光と、友人の愛、これさえ残っていれば、気を落とすことはない」というのはゲーテの言葉。僕がもっとも好きな名言だ。

 きれいな空気と水が失われたとかなんとかいう話は、無視はしないけれどここで書こうとしていることとは別の問題。ここでのテーマは友人のこと。友人というのは過去の偶然によって出会って、その後親交をかわした人のこと。その場限りの人もいれば、一生付き合う人もいる。で、偶然の出会いであるが故に相性が合うかどうかは不明。中学や高校で3年間同じ場所にいたからといって、記憶は共有していても、記憶への価値判断がイコールということではない。

 その後十年以上のブランクを経て偶然にも再会したとき、ブランクの間に人間は経験によって変化しているもので、尖った人間が丸くなったり、その反対もある。TwitterやFBで旧友と再会したり、単なる同級生とつなげられたりした時、旧友だった人とは話が合わなかったり、逆に単なる同級生で在学中に1度も喋ったことの無い相手と馬が合ったりして面白い。まあ旧友だったのに10年以上のブランクが起きるということが、本当は親友でもなかったということの証明だったりするのかもしれない。子供時代からの友人でも、その後変わらずに親交が続いているケースも実際にはあるのだから。

 ゲーテの言葉にある友人とは、その人数の多寡を問題にはしていない。ほんの数人でいいから理解し合える相手がいればいいという意味だろう。これが家族ではなく友人としてるのは、家族も広義の友人に含まれるからだろう。理由あって独身の人などは、この言葉を家族とされた瞬間に気を落とさなければいけなくなる。まあそういうわけで解りあえる家族がいればもうそれで問題ないのかもしれないが、世の中はそう簡単ではなく、家族でありながら解りあえないことも少なくない。それでも、友人がいれば気を落とす必要はないのだ。

 だが人間はどん欲なもので、ひとりの友人とだけでは満足出来ない。大人になるとなかなか友人を新たに作ることが難しくなる。子供の頃は強制的にどこかのクラスに放り込まれ、強制的に毎日顔を突き合わせる。結果として毎日話す相手ができ、友人となる。だが大人になると主な新規知人はたいてい仕事関係だ。仕事関係は基本的に利害中心。笑顔で会話していても、本当の友達とは言い難い。

 そこで、TwitterやFBで新たな出会いを模索する。ところがそういう公開の場で意見を言うことにはリスクもあって、多くの人がアカウントを作って発言をせず、他人の発言をただ見ていたり、あるいはアクセスさえしないようになってしまう。

 今日、FBの誕生日お知らせ機能がある人の誕生日を知らせていた。その人は2010年くらいにFBでつながって、何度かメッセージのやり取りなどもした人だ。だが数年前に突然アクセスをしなくなり、以来アカウントはあるものの、まるで死んだ人のような感じになってしまっている。今日僕は懐かしくなってその人のウォールを見てみた。するとここ数年は誕生日に数人の「フレンド」からおめでとうメッセージが並ぶだけで、しかもその中で数人は「今どこにいるの、大丈夫なの」という心配のコメントもおめでとうメッセージに加えているという感じ。言葉を残さなくなった直前に南洋の津波被害があった場所にいたから、本当は既にこの世にいないのかと僕は思っていた。しかし、今日みてみると数ヶ月前にその人の「フレンド」が日本に来た際の写真にその人をタグ付けしていて、だから安否情報としては今も(少なくとも数ヶ月前には)日本で元気に暮らしているということがわかった。

 直接会ったこともなく、声を聴いたことも無い人の安否がわかって嬉しいというのは妙な気分だ。だが、事実嬉しいのだから仕方がない。だからといって「生きてて良かった」というようなコメントを投げたりもしないし、誕生日おめでとうコメントも贈らない。こういう相手のことを、ゲーテの言う友人にカウントしていいのだろうか。よくわからない。

 今日のmusipl.comで、柴田聡子というシンガーの『いきすぎた友達』という曲を紹介した。

 この曲を聴いていて、人は世の中をどのように見ているんだろうということを考えたし、レビューの文章として書いた。それは歌のこととまったく関係ないように見えるが、自分の中では婉曲だけれどもこの歌のことを書いたつもりだ。淡々と歌われる内容は、友人と自分のこと。仲良しの友人の声が、電話をかけてくる相手など数少ないのに家族の声と区別ができないという。そうなってくると、それは友人なのだろうか、他人なのだろうか。それを他人と言えば家族だって他人になる。他人のような家族もいるし、じゃあ自分に電話をかけてくる人というのはどういう相手なのだろうか。家族、友人、それとも他人。それを明確に言える人などはおそらく誰もいないだろう。よく日本人は他人の視線の中でのみ生きているといわれる。それはある程度当たっていると思うけれども、じゃあ非日本人的な外国人はいったいどうなんだろうか。オーバーアクションで感情を表し、ちょっと会っただけの人にもベストフレンドと臆面もなく言う。先日もFBでつながっているだけのフランス人が日本旅行の際に僕に会うためだけに京都にやってきた。そこまでしてくれる相手のために数時間ランチや京都観光にともてなした。とても喜んでくれて、お前はベストフレンドだ、マルセイユに来る際にはオレのうちに来いと行ってくれる。でも、おそらくマルセイユに行く機会は僕に訪れる可能性はとても低く、奇跡的な対面を経て再びFBのウォールの中での「フレンド」に還っていくのだろう。

 人間には時間に限りがあって、その中でどう行動するのかは自ずと選択を迫られる。誰に会うのかも選択。友人というものはFBのフレンドとは違う。2500人も友人としてゲーテの言葉の根拠にすることは出来ない。だから「フレンド」なのだ。軽視するわけではないけれど、すべてを同列に扱うことはそもそも不可能。ましてや15万人のTwitterフォロワーを同列に扱うことも不可能。まあそちらには人間ではないアカウントも多数含まれているとは思うけれども。

 かといって、フォロワーやフレンドから友人に発展するケースもゼロではないと思っている。いずれまたフレンドとしてウォールの中だけの付き合いに還っていく可能性が高いフレンドも、他のフレンドよりは親しい気分でフレンド関係を維持していけるだろう。少なくとも、30年以上前に3年間リアルに同じ空気を吸っていただけの「フレンド」よりは、近しい気持ちで僕は感じている。数年前に突然「今から会いに行きたいんですけど」と古い映画のタイトルのようなDMを送ってきて、本当に会社に現れたフォロワーの彼とは今もっとも京都で顔を会わせる友人になっている。

 そんなことを、考えたりしてみた今日の午前中でした。明日開催されるという同窓会に欠席する僕は、その理由をどう伝えていいのかわからず、今もまだ出欠の連絡さえ送ってはいない。

日本シリーズ

 日本シリーズとやらが終わってもう1週間ほど過ぎたらしい。でも巨人ファンにとってのプロ野球は阪神による悪夢の4連勝によって終了しているので、もはやどうだっていいオープン戦のようなものにしか過ぎなかった。2007年にクライマックスシリーズが導入されて、シーズン優勝を果たしたチームが日本シリーズに行けなかった例は3回しかなく、そのうちの2回が巨人で、どうしてもシリーズ出場権を横取りされたという思いが強い。今年などは阪神に7ゲームの差をつけて優勝しており、なぜCSのアドバンテージが7勝与えられないのかと憤怒するのだけれども、ルールとはそういうものだから仕方がないのです。

 そういう巨人に対して浴びせられ続けてきた罵声と言えば、金にあかせて大砲やエースばかりを集めてきてズルいというもの。移籍前チームのファンからすれば横取りされたという気分なのだろうけれども、それもルールなのだから、仕方がないのです。巨人ファンにすれば松井や上原などの生え抜き大砲にエースをメジャーに持って行かれて、横取りされたという気分はやっぱりあるのだけれど、それもルールなのだから仕方がないのです。

 
 そんな日本シリーズと呼ばれたオープン戦が終了し、巨人と同様2010年にシーズン優勝をしていながらもシーズン3位のチームに出場権を横取りされた経験のあるホークスが勝ったとかで、斯くあるべしと溜飲を下げたわけだけれども、人々が野球ごときに浮かれている間にも次々と起こる社会の揉め事は本当に目を覆いたくなるばかりのことで、本当に僕らはこんな人たちをリーダーに選んだのかと頭を抱えたくなるばかりで、民主主義の限界はあるんだなあと実感せざるを得なくなる。野球ごときであればルールだから仕方ないと嘆いて関心を失えば済むことだけれども、社会のことに関心を失うということは人生を放棄するのとほとんど同意で、だからおいそれと関心を失うべきではないことは自明の理。

 昨日なども消費税を10%にあげるべきかどうかについて有識者によるヒアリングが始まったとか。これは一体何の八百長なのかと絶望したくなる。これは例えて言えば「日本シリーズでの優勝チームはどこであるべきか」について有識者を集めて話を聞くというようなもので、誰が選ばれるのかによって結論は変わってしまう。100人の有識者を集めると言いながらそのうち60人は巨人ファンを呼んでおいて、残り40人に他球団ファンを適当に散りばめておけば、結論として「巨人が優勝すべき」という結論が導かれてしまうだろう。多数決イコール民主主義ではないけれども、これは多数決ですらない。でも全体で消費税増税が有識者の総意ということで結論づけられて、報道され、民意は形成されていく。まったくお話しにならないけれども、現実はそうやって粛々と進められていく。誰かがそういうルールを作ってやっているから、ルールなので仕方がないのです。そうやって、理不尽なことを「ルール」という名のもとに受入れていて、それでいいのかと思うけれども。

 そもそも有識者というのが本当に何かを見通せるのかということを考えるとき、プロ野球解説者によるシーズン予想というのが参考になる。4月の開幕前にキャンプの様子などからそれでメシを食っている野球解説者が半年後の順位予測をする。で、高名な解説者たちがそろいもそろってバカ揃いということが10月には露呈する。しかし日本の中で彼ら以上に野球を知っている人はいないということになってしまっているので、性懲りもなく次の4月にはまた彼らに同じ質問をする。テレビやスポーツ紙はそれを報じてしまう。まるで8%に上げるべきかの有識者ヒアリングの結果上げられた消費税による景気動向がハッキリしているというのにまた10%に上げるべきかのヒアリングを繰り返してしまっていることを、まったく同じトーンで報じている。

 野球であれば、シーズンが開幕して勝敗が決していって、半年後には正しかったかどうかがわかる。解説者たちがいかにポンコツだったかを白日のもとに晒すことが出来る。だが、消費税を上げて正解だったのか間違いだったのかについてチームで争うようなことはなく、だから結果についてはどうと言うことも出来る。だから有識者たちがいかにポンコツなことを言っているのかは結局はわからない。だから彼らは言いたい放題のことを言いまくる。しかも彼らの多くはインサイダーだ。消費税が上がることで自分の業界がどうなるということがわかっている。年金基金が株に向かうことが表明されたと同時に株価が一気に上がるように、消費税が上がることで何が利益になるのかはプロの経済人ならよくわかる。彼らには自分の業界の利益が民草の暮らし、竃から煙が上がるかどうかなどより遥かに重大事。街ゆく人にインタビューして「自分は株やってるからね、問題とは思うけれど歓迎します」なんて自己矛盾した返事を笑顔でしているオッサンと、基本はまったく変わらない。

 民主主義のルールが現在の政治の在り方を決めたとすれば、そのルールは一体どこにポイントがあったのかというと、最近僕は小選挙区制の導入にあるのかという気がしている。これは小沢一郎が主導して政権交替を果たし、法整備に尽力したもので、そのこと自体は間違っていないと思っている。それがなければ中選挙区制のままで、そうなると自民党の中で派閥による議席の振り分けがずっと続いてしまっただろう。小選挙区制の導入によって有権者は2大政党の中から白黒つけられるようになった。はずだった。しかしながら当時の共産党や社会党、公明党などの激しい抵抗によって比例も一部取り入れられた。そりゃそうだ。完全に2大政党による白黒という制度になったら少数政党は生き残れない。自らの主張が正しいと思っているのかどうかに関わらず、組織は存続を願うもので、そのためには何でもやるのが本能。日本の民主主義のために死んでくれと言える大義もなければ、多数党による連立でかろうじて成立していた与党に取って、彼らの協力は不可欠だったわけで、有権者に選択権を与える真の民主主義を実現する最大のチャンスは民主主義的手続きとパワーバランスによって葬り去られた。

 そんな感じでルールという名の談合的手続きの中で僕らは暮らすことになり、だから一部の人たちの利害に立地するヒアリングという名のガス抜きで、大局的な幸福は後回しにされてしまう。じゃあ大局的な幸福ってなんなのと問われればそこに明確な答えなどなく、答えなど無いことが強欲者の勝手な政治運営経済運営を押さえることも出来なくさせているというのが実際のところだと思う。

 最初の自民党下野からもう21年が経過し、弱小政党乱立と自民という構図はまた振り出しに戻った感がある。これから21年が経過した時にこれが多少なりとも是正しているのかというと、その期待はとても薄い。少なくとも僕はそう感じている。21年後に自分が生きているのかというと、平均寿命的な観点からすれば十分に生きていておかしくないけれど、平均ということは平均前に死ぬ人も多く、じゃあ自分がそうならないという保証は無い。そういうタイムリミットに向けてどのくらいの希望を持てるのかと言えば、試験終了まで残り5分を切って、なお空白の解答欄が半分を占めている受験生のような気分にもなってしまう。ええいとりあえず1の欄を黒く塗りつぶせとやけっぱちな気分になる。マークシートならばの話で、文章を記述する形式ならもはや諦めるしか道は無い。どこかに何らかの希望が持てなければ、社会に対して積極的な気分になれるのかというと、そんなことはとても不可能だ。政治に関心を持っていると自負している僕でさえこうなのだから、そもそも関心の薄い人に持てというのは酷なのかもしれない。投票という権利を放棄したところに、自分の意志も人生も無いことは自明であってもだ。

 そう考えると、シーズンでボロ負けしてても3位に入りさえすれば日本一の可能性が残されるクライマックスシリーズというルールもあながち悪いものとは思えなくなってきた。あれがあるおかげでシーズン終了までなんとか盛上がることが出来る。そうか、そういうことだったのか。

 多分違うとは思うんだけれども。