月別アーカイブ: 2013年10月

NAVERまとめをやってみた

 NAVERまとめというのがある。詳しくはないのだが、Twitterでのツイートやり取りなどをまとめるアレ。リアルタイムで追えてなくても誰かがまとめてくれているのをあとで見るというようなやつ。これで昨日あたりからこれからくるバンド紹介みたいなのをいくつか見ることになり、しかもいろいろな方面の関係ない人から同じまとめにリンクされたツイートやらFBの投稿やらを見たので、ああ、これは広げるためのツールになるんだなと思った。それで、musipl.comで紹介しているバンドを紹介してみようと。
「musipl発掘の激熱ミュージシャンたち!!」
 で、作ったページを個人のTwitterとfacebookのアカウントで投稿し、musiplのTwitterアカウントでもツイートした。すると結構な勢いで見られている様子。問題はこれが僕の個人Twitterアカウントでの影響なのかそれともNAVERまとめのサイトの影響なのかがわかっていないということ。僕のブログを更新した時にツイートすると読んでいただける初動よりはちょっと勢いがある感じ。
 タイトルも最初は「musipl推薦のミュージシャンたち」としていたのだが、他のと較べてなんかインパクト無さそうだったので「musipl発掘の激熱ミュージシャンたち!!」というふうにしてみた。推薦よりも発掘の方が旬な感じするような気がしたので。ビックリマークも2つ付けてみた。
 こういうことをちょっとずつやっていって、musipl.comが広がっていけばいいなと思ってます。皆さんどうぞよろしく。musipl.comのfacebookページに「イイね」するのがまだの人は、是非ともこのブログの下の部分からお願いします。ホント、音楽業界の勇気と希望につながりますので。よろしくですよろしくです。

なぜCDなのか?

 キラキラレコードの京都オフィスは比較的ハイカラなエリアにある。最先端というよりモダン、モダンというよりハイカラ。平たく言えば文化度は高いが少しばかり古めかしい、そんな場所だ。京都というと神社仏閣的で平安京以来の古い都市と思われがちだが、実は新しいものが好き。どこよりも早く新しいものを取り入れては長く大切にするから、時間の経過に連れ古い建築などが多くなる。要するに古くて新しい街なんだと思う。中でもその特徴が顕著なのが、我が寺町通りである。
 その寺町通りには小さなギャラリーが沢山ある。そこそこ有名な人の作品展からまったく無名の画家の個展、同好のサークルでのグループ展までいろいろな作品が日々展示されている。時々ふらりと入ってみるが、無名作品を展示しているギャラリーに入るとちょっと場違いな雰囲気に包まれることがある。同好の仲間たちが「あれは誰だ?」という目を一瞬するからである。そもそも知人以外は来るはずもない。そう思ってやっているのか、見知らぬ人がふらりと入ると違和感があるようだ。こちらもそれを感じながら、素人の絵を眺めたりする。
 見知らぬ人が来ることがないのなら、ギャラリーを借りて展覧会をする必要などなかろう。ホームページに作品を上げていればいいわけだし、なんなら同好会の日頃のアトリエに互いに持ち寄れば済むことだ。なぜギャラリーを借りて展覧会をするのだ?
 と、普通の人は思うだろう。確かにそういう展覧会は多い。でも、だからといってギャラリーで展覧会をすることがすべて無駄なわけではない。京都のギャラリースペースで気に入ってずっと注目している若手作家がいる。以前にもブログに書いたので気になる人は過去記事を探ってもらえばと思う。で、その若手作家などはもう何年かに渡って個展を開催している。最初は初個展だろうが、回を重ねるごとにそれは経歴になっていく。グループ展をやるよりも個展だ。個展を重ねていくと、その人は徐々に画家、アーチストになっていくのだ。20歳から年に2度個展を開催している作家がいたとして、同じ力量の人が1度も個展をやらなかった場合、30歳になった時にかたや個展20回の作家、一方は個展をやったことのない作家。個展をやったことがあるかどうかが直接作品の良し悪しに関係するわけではない。だがアートを見抜く目を持った人ばかりではない以上、肩書きに個展20回というのと個展歴無しでは見られかたが違ってくる。個展歴無しでは素人絵描きと何ら違わない。いつから描いているのかさえ証明出来ない。しかし10年で20回の個展経験であれば、画家として10年のキャリアを持っているということになる。
 肩書きだけの話ではない。誰かに見せることを前提に描き続けるのとそうでないのでは、描く時の神経もまた違ってくるはず。誰にも見せないのであればこの程度で良いやという甘えも出る。しかし誰かに見せるのであれば、それがたとえ友人知人であっても手を抜くわけにはいかない。少なくともギャラリーのオーナーには見せることになるわけで、ギャラリーオーナーは一応プロだ。そういう人の意見を聞きながら作品を描き続けるのとそうでないのとでは10年間で大きな開きが出るだろう。
 最近CDが売れなくなってきているとよく言われるし、実際そういう傾向はある。だからCDはもう要らないんだよというミュージシャンも増えてきている。レーベルとしては由々しき事態だ。だからこういうことを言っているのであってその分は割り引いて読み進めていってもらえればと思っているが、とりあえず進める。
 ミュージシャンがCDを出すということの意味はなんだろうか。もちろんビジネスにつなげていきたい。それは当然だ。しかし昨日までCDなんて出したことのないミュージシャンが出していきなり売れるなんていうのは、ジャニーズででもなければなかなか有り得ない。しかもインディーズだ。そんなに知名度もなくTwitterのフォロワーが数百人という状況でどうしてCDが1000枚売れるのだろうか。フォローが多ければ比例して売れるとは言わないけれど、フォローなんて無料でできるのに1000人に達してなくて、有料のCDがそれ以上売れると考える方がどうかしているだろう。
 では、売れないとわかっているのにCDを出すのは何故なのか。そういう質問が聞こえてきそうだ。だから答えよう。まずCDを出すことが「本気だぞ」という宣言になるのだ。ギャラリーで個展を開くのも、どうせ友人しか来ないし金もかかるのになんで開かなきゃいけないんだということになる。で、開かずにいたらずっと無名の素人だ。ミュージシャンも同じだろう。最初は本当に友人しか来てくれないし、偶然ふらりと誰か会場に入ってきたらビックリする。CDだって見知らぬ人が最初から買ってくれるわけではない。でもそれも回を重ねれば見知らぬ人が増えてくるし、買ってくれるようになる。当然増やすための努力を一生懸命しなければいけないわけだが。
 その最初の一歩が、デビューCDである。まあレーベルじゃなくても自主でもいいよ。とりあえず出して、世に問うていかなければ道は絶対に開けない。まあ自主でもCDRだとamazonで販売も難しいし、ショップでの取扱いもおぼつかない。じゃあ最初っからamazonやショップで売れるのかというとまた鶏が先かタマゴが先かという話になってしまうわけだけれども、じゃあいつから売れ始めるのかというと、結局は売れるための仕組みを作ってからと言うしかないわけで、売りたいのならできるだけ早く形を整えるべきじゃないだろうか。それが無名であってもギャラリーで個展を開くようなことと通じているんじゃないかと思うのだ。
 いや、断っておくけれども、そうやって個展を開いたりCD出したりするのは、本気の人限定にしてほしい。そうでなければ、最初に個展に呼びつけられたりCDを買わされたりする友人知人が迷惑だし、関わるギャラリーやレーベルも時間の無駄だ。将来的に成功するかしないかは結果論でもあるのでその保証は誰にもできないだろうけれども、少なくともやってる本人、作家やミュージシャン自身は心の底から成功を信じ、本気で取り組んでいる人限定でやってもらえればと強く願う。

『お茶の葉』/ H・S・ホワイトヘッド

 百年文庫という短編小説を3編ずつ収録したシリーズの「都」に収録された小編。主人公が海外旅行に出かけることで起こった出来事の話。具体的なストーリーは避けるが、なかなか面白かった。全部で138ページに3編が収められ、それぞれの分量はほぼ均等。でもこの作品がもっともテンポがあって畳み掛けるような流れで、あっという間に読めた上に、中身も詰まっていた。おそらく無駄な形容詞がほとんど省かれた文章なのだろう。そう感じさせる訳者の力量も大きいのかもしれない。
 この小説、終始金額が仔細に書かれている。いってみればお金にまつわるストーリーともいえる。主人公の人生はお金に縛られたり振り回されたりする。だがけっして彼女の中でお金は一番ではない。何かをやるのに金は必要で、だからそれを疎かにはしないのだが、どんな瞬間にもお金のためになど動いていない。それが美しいなと爽やかな気持ちにさせられた。
 旅先で得たそれは主人公に何をもたらしたのか。それをお金とみるか希望とみるかによって、読者自身の心持ちが決まるのだろう。それを試すような、そんな小説のような気がした。

おそろしくアクセスを拒んでいるかのような

 バンドの情報は、今はほとんどネットの上にある。これはバンドに限らないことではあるが。
 僕も日頃ネットの情報から見知らぬバンドのことを知り、メールをしたりすることがある。で、先日あるバンドにメッセージを送ろうとしたらそのメールフォームが異常なまでにアクセスを拒んでいるかのようなもので驚いた。
 まず、メールという文字をクリックするとメール送信の仕組みについての説明。これが非常に分かりにくい。バンドなのでチケット予約を前提にしたメールフォームなのだが、こちらのメールアドレスを記入する欄がないので「本文にメールアドレスを忘れないように記入すること」と説明が。説明の文字も小さく文章も長い中に断り書きがあるだけなので、きっと書き落とす人が続出(そもそもチケット予約する人も多そうではないが)するだろうという印象。
 以上の説明を理解した人は次に進んでくださいという流れになっていて、それで進むと2つだけ記入スペースが表示される。だがそのスペースに何を書けば良いのかの指示が無い。ただ単に2つのボックスと送信ボタンが出てくるだけ。1つは1行だけの横長のもの、もう1つは複数行を書くだろう正方形のボックス。正方形の方には本文を書くのだろうということはわかるが、1行の方にはタイトルなのかこちらの名前なのか何なのか、まったくわからない。それで試しに送信ボタンを押してみると「タイトルと本文が空欄です」という表示になる。だから「ああ、タイトルを入れるボックスなんだ」とやっとわかる。
 で、タイトルと本文を入れて送信ボタンを押してみると内容確認に移る。こちらが書いたタイトルと本文が表示されたのだが、白の背景に薄めのショッキングピンクの文字で、縦横2mm以下のサイズの文字が一気に表示される。はっきり言って見えない。それで内容を確認しろといわれても、ちょっと困るよ本当に。仕方なくたいした確認もせずに最終の送信ボタンを押してみた。
 これ、一体なんなんだろうか?外部からの連絡は拒否したいのだろか。レーベルがどうこうということなら「もう間に合ってます」というバンドがいても全く不思議はないが、そのメールフォームは一応チケット予約を前提にしたもののようで、だからある意味チケットを予約などしなくていいですと言っているようなものだと思った。
 多くのネットショッピングサイトなどはサイトをどういう作りにすれば利用客がスムーズに買い物をしてくれるのかを日夜研究している。いかにすればクリック回数を減らせるのかや、クリックしたくなる色合いの研究や、視覚的に追いやすい配置など、その研究は凄まじい。その結果僕らはついつい日頃欲しいとも思っていないものまで買わされたりすることになっているのだが、そういうのに慣れていると、今回のメールフォーム(そもそもメールフォームというものが既にアクセスの障害になることも多いわけだが)の作りの異常さが却って新鮮でもあった。新鮮だからといってそれがイイとは思わないのだけれども。
 バンドマンはホームページ作りの専門家ではない。だからショッピングサイトのような作りを研究する必要まではないけれども、普通に作ったらそれなりのものが出来る環境は既にあるわけで、なぜその程度のことをしないのかと思った。彼らに限らず、そういうホームページの拙さで損をしている人は少なくないと思う。音楽に一直線なのはわからないでもないけれども、リスナーやこれからファンになるかもしれない人の目線にたった環境作りというものにももう少し気を遣うことで、一直線で作っている音楽そのものがもっと陽の目をみる確率も上がるだろうと思ったりする。
 まあ、今回のアクセスを拒んでいるかのようなメールフォームのバンドのホームページは、ある意味きちんと理解して取り組まなければ実現しないようなおどろおどろしさがあったので、もしかしたら意図的にそうしているのかもしれないけれど。いや、それは無いなきっと。

新人発掘について

キラキラレコードで新人発掘をし続けて23年。いろいろやってきたけど本当に難しい。アーチストがこちらに求めるものと、レーベルがアーチストに求めるものがなかなか一致しないというのが大きな理由だ。
アーチストは主に二つのことを求める。ひとつは流通であり、もうひとつは宣伝である。
流通とは、第一にはタワレコやamazonで売られるという状況を作ることで、次には店頭で必ず置かれる状況にすることで、さらには実際に枚数が売れることである。
いずれの場合も、基本的には現状の自分の状況以上の状態を求めてくる。それもすぐに。レーベルが関われば何かの魔法を使ってシンデレラにしてくれると思われているのだろうか。楽ができると思っているのだろうか。でも音楽性をいじられたくはない。自分たちの世界観には関わって欲しくない。自分たちが決めた願望的計画を実現するためにレーベルが魔法をかけてくれると思っている。
だがそううまい話はないよ。
レーベルとしては、まず第一にこちらの話をきちんと理解してくれるアーチストを望む。次に、無条件に頷くのではなくちゃんと納得した上で自分の意見を出せるアーチストを望む。さらには本当に実現したいことを明確に持ち、その実現のために何をやればいいのかを真剣に探し、解が見つかればきちんとコツコツやり遂げる根性を持ったアーチストを望む。だがそこまで出来ていたらある程度の成功は既にしているだろう。それがないからどうしていいのかわからずに、行き当たりばったりの活動をひたすら繰り返すことしか出来ずにいるのだ。
話は途中だった。宣伝の話だ。アーチストが求める宣伝とは、テレビに出たい、雑誌に載りたい、フェスに出たいというものだ。そういう機会さえあれば多くの人に知ってもらえて人気も急上昇するだろう、と。
流通もそうだが、宣伝もそうだ。多くの人の目に耳に届けたいわけだが、じゃあ届けてくれる立場の人、ショップの人やメディアの人イベンターの人の気持ちはどうなのだろうか?お店に並べてどのくらい売れるのか、テレビに出せば視聴率は伸びるのか。出演させれば動員が期待できるのか。それを追求される立場の人が何を扱いたいのか、取り上げたいのか、出演させたいのか。そのことを考え、まずは扱いたいと思ってもらえる状況を作るべきだ。ショップに置かれたくないとか、メディアに取り上げてもらいたくないとか、フェスに出たくないのならそんなこと考えなくていい。でもやってもらいたいのなら考えるべきだ。
そのために今何をすべきなのか。それを一緒に考えるのがレーベルの大きな仕事だと思っている。遠回りのようで一番確実な努力の道。それを理解できる才能がある人を、新人として発掘したい。今はまだ理解していなくても、だから道に迷っていても、それは構わない。むしろそういうアーチストほど、道しるべ役を求めているはずで、だからキラキラとの出会いが役立つのだと確信している。
それはいい先生との出会いを求める学生のようなものかもしれない。意欲はあっても理解力に欠ければ良い教えを身につけられず成績も上がらない。有名予備校に入りさえすれば志望校に合格出来ると思えばそれは勘違いに過ぎず結果はおぼつかない。小さな個人塾であっても、学生に理解力と熱意があればそれに応じた学力は身に付く。もちろん個人塾の先生全てがいい先生とは限らないわけだが。まあどの先生がいい先生なのかを見抜く才能も学生には問われるのだろう。
出でよ、本気のアーチストよ。目的意識を持ち、そのための努力をきちんとすれば、成果は必ずついてくる。僕はその出会いを心の底から待っている。

ねじ梅タッシと思い出ナンセンス『28才』 ~ musipl.com

ねじ梅タッシと思い出ナンセンス『28才』
 僕がやっている音楽情報サイトmusipl.comでのレビューをこのブログでも紹介しています。

 切なくなります。ロックスター的なカッコ良さではなくて、普通の人の普通の中にあるカッコ良さがあると思います。映像は彼らの地元京都の風景、鴨川や錦小路が映っていて、普通の光景なんだけれども、どこか輝いている。それは彼らの歌にある普通の中のカッコ良さのような感じで、そう僕らは誰だって自分の中にスターのような輝きを持っているんだって思わせれくれるような、そんな静かなカッコ良さがある曲だと思うんです。
 (musiplのTwitterとfacebookのmusiplページもよろしくお願いいたします。)

あべたかしGOLD&キラキラみさこ/「It's Wonderful Life」 〜 musipl.com

あべたかしGOLD&キラキラみさこ/「It’s Wonderful Life」
 僕がやっている音楽情報サイトmusipl.comでのレビューをこのブログでも紹介していこうと思います。

 とってもいいですね。ほのぼのとします。ボーカルのあべたかしGOLDさんの地味に迫力のある歌声に心揺さぶられ、キラキラみさこさんのなんともいえない朗らかさに和みます。
 先日彼らがライブで京都を訪れた時にお会いしました。このレビューをしたときから彼らの他のYouTube動画をいろいろ観てたからか、どの歌も「もう既に知っている」状態になっていて、未見のアーチストのライブを観るのとはまったく違う感慨に。もうファン状態です。でもどんなにYouTube動画を見たとしても、結局生演奏の良さには及ばないのだなあということをあらためて感じました。キラキラみさこさんの歌やコーラスが、マイクから離れた位置で歌っているにもかかわらずよく響いて、声量がある人なんだなあと思います。カホンを叩きながらなので少々猫背状態なのによく声が出るなあと。
 僕は彼らはハンバートハンバートのような感じになっていくんじゃないかと密かに思っています。いや、そこを狙えというのではなく、結果的にそうなっていくんじゃないかなあと。だって良いんですもの。良いものが口コミで広がっていくのは自然なことだし、自然に広がっていくのを、ちょっとだけ後押ししていくことができれば、なんというか、音楽関係者として嬉しいのです。
 (musiplのTwitterとfacebookのmusiplページもよろしくお願いいたします。)

感動ポイント

けったいなライブを見ている。カラオケのバックトラックに乗せて歌うだけ。しかも歌詞カードを見ながら歌っている。
でもこれ、カラオケボックスでの友だちの歌ではないのだ。ライブハウスのステージなのだ。カラオケボックスならば友だちだからいいよ。しかもある程度は知っている歌だ。でも、知らない人が知らない歌を歌詞カード見ながら歌っている。どうしたら楽しめるのだ?
それでも客席はそれなりに手拍子などしてくれていて、不思議な状況だったよ。もしかして僕の感覚が古くてついていけないだけなのだろうか?
そうなのだとしたら仕方が無い。でも多分そうじゃないと思う。知らない人が知らない歌を歌詞カード見ながら歌っているのを見て楽しいなんて有り得ないだろう。余程の美声や驚異的なオクターブとかでなければ。
でも、よく考えたら普通のバンドマンの生演奏ライブでも、生演奏しているというだけでどう違うのだろうか?歌詞カードを見ずに歌っているからいいのか?だったら歌詞を覚えてることに感動しろということになる。
感動のポイントってなんなんだろうか?そのポイントさえ押さえていれば、カラオケで歌詞カード見ながら歌っているのでも十分に感動できるのだろうか?そういうことを考えていると、僕はさっきのシンガーの何が不満だったのか分からなくなってくる。
そうして次の出演者は、MTRの機材トラブルでステージの開始が遅れている。最悪の事態に備えたバックアップでカラオケの音源を用意してないのだろうか?延々と待たされている。電子機材はトラブルが付き物なので、同じ機材を2台持参すべきだし、それが無理なら代替策を講じておくべきだ。最悪MTRと同じ音が鳴るCDRを携帯しておくべきだ。
そう言っていると、要するに僕はカラオケでステージやっても許容できるということになるんだな。さっきのカラオケシンガー、不満言ってすまなかった。でも不満だったのは確かなんだよ。
一体彼の何が不満だったんだろうか?そういうことを考えることは、逆に言えば満足というものは一体なんなのだろうかということを考えることになるのかもしれない。答えを出すのは簡単ではないけど。

FaceTime

 とっくにそんなの知ってるよと言われてしまえばそれまでなのだが、別にガジェット通信的なブログではないので書きます。みんながみんなiPhoneのことに超くわしいということでもないだろうし。
 FaceTime。なにかというとiPhoneの機能のひとつでテレビ電話が出来るというもの。これは以前のiOS(iPhoneのOS)からあったのだが、iOS7という新しいOSからテレビ電話じゃなく普通の電話としても使えるようになったそうだ。その記事をどこかで読んで、これだと思った。ちょうど先月僕はiPhoneのソフトバンクの契約を解約していた。といってもdocomoに乗り換えようというのではない。春くらいからスマホは高いと思い始めていて、それでスマホをフォンとして利用するのを止めようと思ったのだ。
 僕はそれまでdocomoのガラケーとiPhoneを2台持ちしていた。iPhoneでは電話をすることもほとんど無く(番号を知っている人もほとんどいないし、僕自身覚えてもいなかった)、Twitterなどアプリのために持っていたといっても過言ではない。311の時には携帯よりもTwitterの方が頼りになったし、出先でツイートすることも多い。ウォーキング中の風景を撮影してアップしたり。なのでTwitterが使える機械を持ち歩くことは重要だ。で、iPhoneを持ち続けていたのである。
 だが京都に移転したのを機に会社や自宅のネットはWiMAXに変えた。それを持ち歩けばネットにはつながる。Twitterは出来る。facebookも出来る。電話はガラケーがある。じゃあそれでいいじゃないか。なんで今まで気がつかなかったんだ。解約料の9000円ちょっとだって、払ってお釣りが来る。だってもう金輪際ソフトバンクから6000円程度の請求が来ることもないのだから。
 docomoの携帯もほとんどこちらからは電話しないので、基本料がいちばん安いプランにしている。だから多少電話したところでいいのだが、時間あたりの通話料金はちょっと高め。だから通話料が無料になるのは魅力的だ。バンドマンなどとはスカイプで話をしたりする。でもこれ、なかなか面倒ではある。お互いに事前に何時から話そうと約束しておいてからアプリを立ち上げていないと通じない。携帯感覚で話すのには適していない。
 ところが、ところがだ、FaceTimeはほとんど電話。iOSにアップグレードしていると、連絡先に登録している人の欄にFaceTimeの項目が追加されている。その電話マークをタップすると自動的につながる。相手も電話がかかってきた感覚で受けられる。それで電話代は一切かからない(パケット料金はかかるそうで、もし相手がパケットフリーにしていない場合は高額のパケット料金が「相手」にかかる。だが今どきパケット定額以外でiPhoneを使っている人などいないだろう)。僕のiPhoneは電話契約を解約しているので使えないのかと思ったら、見事に使える。パケットだから、WiMAXでつながれば大丈夫なのだ。相手がiOSを7にしていない場合は音声通話は出来ない。まだOSが古い奥さんのiPhone4には音声通話ができなかった。でもテレビ電話としては使えた。AppleIDさえあればいいみたいだ。街中でテレビ電話するのはちょっと恥ずかしいけど。
 やがてOSもどんどん新しくなり、僕が今使っている電話契約無しのiPhone4Sはやがてスペックの古さ故に使えなくなるだろう。その時はiPod Touchを買えばいい。もちろんFaceTimeが使える。Touchは16GBで22800円だ。ソフトバンク請求の4ヶ月分でお釣りが来る。バックカメラのついている32GBでも29800円。docomoのiPhoen5Sの一括払い95760円がなんとアホらしいかがわかる。ソフバンとauだって78120円なので比較するのもアホらしい値段だが。
 というわけで、これからは基本的にdocomoガラケーと元iPhoneとWiMAXルーターの3台持ちで電話を受けるのはガラケー、かけるのもガラケー、相手がiPhoneだとわかっている一部の人にはFaceTimeということにしたい。まあそもそもその一部の人にしかこれまでも電話などかけてこなかったのだから、たいして違いなどないのかもしれないけれども。

音楽のマネタイズ

 AKBの商法を非難する声は今も多い。あれはCDを売っているのではないと。売っているのは握手券だと。選挙の投票権だと。だからそれでCDのセールスが上がっても実際にそれだけ売れているのではないと。だからクソだと。いやー、さんざん言ってきた。僕は言ってないけれど。
 僕の主張はこうだ。売れるというのは音楽が売れるということではないんだと。もちろん音楽の価値を押し出して売れるという方法もある。だがそれでは1曲だけの一発屋に終わることになる。大事なのはアーチストそのものの価値を理解してもらい、評価してもらうということだ。だから聴いてもいない新曲に期待してもらえるのだし、買ってもらえるのだ。究極としてはアーチストのロゴ入り消しゴムが売れるようにならなければいけない。アーチスト活動というのはそういうものだろう。CDだけが突出して売れるというのは、アーチストパワーがさほどないということの証明でもあるのだ。
 そういう意味で、AKBやジャニーズの売れ方を批判している人たちには、じゃあその音楽の圧倒的なクオリティの高さでCDの売上げ枚数的に勝ってみろよと言う以外にない。AKBのルックスが特別絶世の美女揃いということでもないわけで、踊りや歌がものすごいレベルということもないわけで、それにCDの売上げが負けているのであれば、結局は負けている音楽の価値というものはその比較的普通の集団が提供している芸的な何かに負けているということになってしまう。まあ結果負けるのは仕方の無いことだが、負けていることを正当化するためにAKB商法を揶揄するのは負け惜しみみたいで恥ずかしいなと思うのである。もちろんそんなに単純な話ではなくて、ビジネス的な手法を様々に絡めた戦いなのだから、単純化した論で比較しても仕方ないのはわかっているけれども。
 で、何で今頃そんなことを書いているのかというと、ここ最近のCDの売れ行きの落ち込み(と言われている)への話として、音楽ビジネスそのものをどうシフトしていくべきなのかということを言う人たちが増えているからである。具体的にはこうだ。近年若者は音楽というものはすべて無料で手に入るものだと考えていて、この流れはもう止まらないので、音楽業界はいつまでも音楽を売ることにしがみつくのではなく、YouTubeなどで無料で音楽を聴かせて、それで気に入ってもらってからライブに来てもらい、チケット収入を得たり、グッズ販売をしたりして利益を出していくべきだと。そういうことをいう人がとても多い。
 では、それは音楽活動なのだろうか。
 例えば、若者の支持を必要とする商品を売っている企業、例えば清涼飲料水会社などが、アーチストと契約をしてその飲料水を買ってポイントシールを送った人だけが(抽選で)行けるライブを企画したとする。そのアーチストのライブ映像をテレビCMでバンバン流し「さあ君も飲料水を飲んでライブに行こう!」と宣伝して、飲料水が売れて、ライブに行く人が喜んで、アーチストには相応のギャラが支払われる。これは音楽活動なのだろうか?売るものが清涼飲料水なのか、アーチストのロゴ入りTシャツなのかの違いしかない。テレビCMかYouTubeなのかの違いしかない。ライブは行われるのだ。ファンはチケットを買う代わりに飲料水を買うのだ。飲料水代からアーチストは収入を得る。チケット代とTシャツ代から収入を得る代わりに。アーチストはその企画を成立させるために、クオリティの高い音楽とパフォーマンスを提供しなければならない。でもそれは自主でライブをやるときもまったく同じことなのだ。
 アーチストもお金が無いとやっていけない。霞を食って生きていけるわけはないのだ。だからなんらかのビジネスモデルで収益を獲得する必要がある。だが、それがTシャツやバッヂなのだとしたら、音楽じゃなくてもよかろうという気がする。それに、多くの人はAKB商法を揶揄してたじゃないか。握手券のためにCDを売るのは邪道だと。種類が違うジャケットで何枚もCDを買わせるのは邪道だと。でも「CDを売るのは諦めてライブチケットとTシャツで稼ごう」というのとそれは一体どこが違うのだ?
 少なくとも、AKBもジャニーズもCDを売るために必死にやっている。そのための策としてちょっとだけズルいと思われるような作戦も展開する。だが、そういう商法によってかろうじてCDの売上げが業界として維持されているというのも事実である。エラいと思う。ルックスなどで複数枚売れないアーチストは、もっと別の、それこそ音楽の質そのもので複数枚売るくらいの覚悟と熱意があって当然なのではないだろうか。それが「もはや音楽コンテンツそのものを売る時代は終わった」などと言っているようでは、あるいはそんなことをいっている評論家たちの言葉に屈するようでは、そもそも音楽で身を立てる資格などないんだろうと僕は思うのだ。